『十字軍国家』


櫻井康人『十字軍国家』

筑摩書房、2023年、1900円+税

石川雄一 (教会史家)

巷にあふれている俗説とは異なり、十字軍とは「狂信的なキリスト教徒がイスラム教徒にしかけた宗教戦争」ではありませんでした。例えば、フランスのクレルモン教会会議で、フランス人教皇ウルバヌス2世が提唱し、フランス人のル・ピュイ司教アデマールを大使とし、ゴドフロワ・ド・ブイヨンらフランス人貴族を中心とした第一回十字軍は、フランス的な運動であったといえます。その詳細な背景や過程をここでは述べませんが、フランス的な運動であった第一回十字軍は1099年に聖地エルサレムをイスラーム勢力から奪還し、シリア・パレスティナ地域にキリスト教の国々を建てました。こうして十字軍により誕生した国々は十字軍国家と呼ばれます。そんな十字軍国家に関して、本格的かつ包括的な紹介をする本邦初とされる本が『十字軍国家』です。

上述のように、日本人の多くは十字軍に関して煽情的な情報に踊らされています。その原因は、何と言っても、研究者が著した解説書の説明よりも面白おかしく書きたてた概説書の情報の方が大衆受けするからでしょう。ですが、同時に日本では十字軍と言ったら、初回の第一回と最も豪華であった第三回、そして予想外の結果をもたらした第四回、そしてフリードリヒ2世とルイ9世の十字軍くらいしか知られていないことも重大な原因であると思われます。そもそも、日本における十字軍のナンバリング(数え方)は独特であり、世界史の教科書を読んでも全体像を把握しにくくなっています。そして何よりも、十字軍が残した十字軍諸国への関心と日本語でアクセスできる情報が、十字軍遠征そのものと比べて圧倒的に少ないことが、様々な誤解の源となっているように思われます。そんな中で出版された『十字軍国家』は、十字軍について学びたい人にとって必読ともいうべき本です。

『十字軍国家』が対象とするのは、第一回十字軍が生んだエルサレム王国などのラテン・シリアにおける十字軍国家だけではありません。ビザンツ帝国を滅ぼして生まれたラテン帝国とモレアのラテン・グリース(ギリシア)、十字軍の動乱の中でビザンツ世界とラテン・シリア世界の間に生まれたラテン人のキプロス王国とキリキアのアルメニア人王国に加え、修道騎士団が生んだ十字軍国家、つまり、ロドス島やマルタ島を拠点とした聖ヨハネ騎士団領やいわゆる北方十字軍が生んだドイツ騎士団領を含みます。

通常、十字軍国家というと、第一回十字軍の結果形成されたエルサレムやアンティオキアのフランス系の国々を思い浮かべます。ですが、ビザンツ帝国を滅ぼした第四回十字軍の結果、旧ビザンツ帝国領にはラテン帝国とテサロニケ王国が建てられ、それらが衰退してビザンツ帝国が復興した後も、狭義のギリシアには十字軍国家が残り続けました。また、ビザンツ帝国領であったキプロス島やキリキアに誕生した新たな国々は、中世後期に重要な役割を果たしていきます。今日でも領土なき国家とされる聖ヨハネ騎士団は、一時支配していたロドス島やマルタ島からロドス騎士団やマルタ騎士団とも呼ばれますし、ドイツ騎士団領は近世にプロイセンとなり、近代ドイツ国家を形成していくこととなります。このような概説からも窺えるように、十字軍国家は世界史に多大な影響を残しました。十字軍国家を知らずに世界史を知ることはできないと言っても過言ではないでしょう。

そんな十字軍国家に関して、日本では、概説書はおろか、専門書もほとんどない状況でした。しかし、2023年に発売された『十字軍国家』は、日本における十字軍研究の第一人者によるラテン・シリアに限定されない包括的な概説書となっています。教養として十字軍国家について知りたい方だけでなく、これから十字軍について学ぼうとする人にも基本的な知識を与えてくれることでしょう。本書を通じて、日本における十字軍の理解が深まり、十字軍研究を志す人が増えることを期待しております。


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