余白のパンセ 14 「ディアスポラ」と旅


私が本郷にあるマルジュ社で本の編集をしていたとき、草森紳一さんの本を出したくなり、草森さんに会いに行きました。

草森さんは、『マンガ考:僕たち自身の中の間抜けの探究』(コダマプレス)や『ナンセンスの練習』(晶文社)、そして『江戸のデザイン』(駸々堂出版)という豪華本、『絶対の宣伝:ナチス・プロパガンダ』(全4巻 番町書房)などを出しているユニークな作家さんでした。

草森さんとどのような本にするかを相談していると、次から次へと興味あるテーマが出されてきました。「当館三本立て:ぼくが選ぶこの映画」は本文紙を3色にして印刷しようとか「冷蔵庫は要らない」では食へのこだわりが環境問題にまで発展した内容でした。

しかし、あれやこれやと話しているうちに、草森さんが「旅ってどうかな」と言い始めました。私は「旅」というイメージに惹き付けられて、書いていただくことにしました。本の内容は、草森さんが1971年から81年にかけて雑誌やPR誌などに書かれたルポやエッセイ、評論、紀行文などで構成されています。

「旅」というテーマになぜ私が関心を寄せたかと言えば、「草森的旅の仕方」はどのようなものなのかが知りたかったからでした。この本のあとがきで、草森さんは「旅人は、どこか犯罪者に似る。旅の楽しみが、なんらかのうさんじにつながるなら、これまた逃亡でもある。犯人が掴まった時、世人はなに喰わぬ顔をしてシャシャと生きていたと指弾する。しかし、なに喰わぬ以外のどんな顔ができるのだ? ともいえるだろう。現代の旅人は、栄養失調だ。人は旅に出たいと思う。ある人は、そのむなしさを見切って旅に出たくないと思う。両者は、現代にあって対立する存在ではない。旅に出たいと思い、思ったままに出かけてしまう人も、旅に出たくないと思う人と同じく、心の底では旅に期待していないからである。淡い期待を抱いていたとしても、それはどこか擬態であると知っている。わかっていながら、あえて旅する人の気持ちは、殺人現場に戻りたがる犯人に似る。この戻りは、逃亡である。」

草森流の旅する者への投げかけは「逃亡」がキーワードで、そして「私は、あえて旅嫌いだと自己規定する。旅は、ふつう並み以上にしているわけだから矛盾のようだが、ここに逆説はない。旅嫌いの旅は、精液一滴にしかすぎぬ自分の証明である。ことさらに私は旅に不愉快を求めている。不愉快とは、人が孤独であること、つまりさびしいなどということではなく、わが身一つ、コーラン流には精液の一滴でしかないことの確認である。」としています。草森さんの「旅嫌い」という旅は「精液一滴の旅」ということになるのです。

ヒトが生まれてくるのには、海の中からはじまる生命の神秘が凝縮されて1010日(とつきとおか)がかかると言われています。そのように顧みれば「精液一滴の旅」は人類の旅へとつながって考えられるような気がします。

私が現代において「旅」を新たに意識したのは、イスラエルとパレスチナ間の出来事からです。いまのイスラエルって何? ということです。1948年からのイスラエル建国の歴史とパレスチナのことは多少知っていました。しかし、それ以前のイスラエルという言葉が持つ意味が理解されていませんでした。

世界史での古代から中世に至る時代、つまり旧約聖書、新約聖書が作られる時代がどのような時代であったのか。そのときに出てくる「ディアスポラ」という民族離散の意味が強く意識されました。

草森さんの『旅嫌い』という本の帯に「軌道を外れて余白の旅へ」と私が書いたとき、草森さんには好感を得られませんでした。私はマルジュ(MARGE=余白)を意識したのですが。

現代(2024年)という21世紀になって、『旅嫌い』から考えを進めたくなっています。それは「歴史」というものが「旅」ということでつくられ、「ディアスポラ」であることが世界平和への道筋を考える上で、重要なことを示唆していると思えてきたからです。草森さんからバトンタッチされて、私の『旅嫌い』がようやく自分自身の思考の新たな旅立ちとして用意されたと考えています。

鵜飼清(評論家)


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

4 − three =