とこしえの喜び イザヤ書61章7節


佐藤真理子

あなたがたは、さきに受けた恥にかえて二倍の賜物を受け、はずかしめにかえて、その嗣業を得て楽しむ。それゆえ、あなたがたはその地にあって、二倍の賜物を獲、とこしえの喜びを得る。

(イザヤ61章7節)

 

先月から新しい年がはじまりました。希望に胸膨らませて新年を迎えようとしていた矢先、地震で大変な被害にあわれた方がいらしたと思います。また暗いニュースに胸を痛められた方も多かったのではないでしょうか。

想像を絶する困難の中にいる方にとっては、何を語られても空虚に聞こえるかもしれません。

私自身東日本大震災の後ボランティアに行った際、悲惨な光景を目にして神様に対し懐疑的になったことがあります。

しかし、「神様どうしてですか。」と心の中で問いかけた後、そのボランティア先で行われたミサで読まれた聖書箇所は大変印象的だったのを覚えています。

だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。「わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている」と書いてあるとおりである。しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。

(ローマ8章34-39節)

私の問いへの神様の答えがこの言葉なのだと思いました。私の問いかけへの神様の答えは、悲惨な出来事の理由ではなく「主は生きていて、私たちを愛しており、どんなものからもその愛は引き離せない。」ということだったのです。それは悲惨な出来事の理由を教えられる以上の素晴らしい答えだと思いました。希望の源となるような答えだったからです。

悲惨なことが続くと、この先も悪いことが起こるのではないかという恐れが付きまとうことがあります。しかし、そんな時こそ、信仰の意味があります。信仰はどんなときにも「良いことが起こる」ことを信じる力だからです。キリストが示した神は私たちを大切に思っている「良い神」なのです。

聖書はなぜ苦難があるのか、なぜ人生に問題が起こるのかについては詳しく語っていません。しかし、信じる人にとって苦難があったとき、また問題が起こったときに何が起こるのかについては、旧約から新約にかけて多くの記述があります。聖書に記されている信仰の人は皆苦難を通っているのです。しかし、創世記のヨセフも、ヨブ記のヨブも、エリヤもパウロもその他の人物も皆、主を信じ切った人は苦難を通して素晴らしい祝福を受けています。素晴らしい人生を送っています。聖書には次のことが約束されているのです。

あなたがたは、さきに受けた恥にかえて二倍の賜物を受け、はずかしめにかえて、その嗣業を得て楽しむ。それゆえ、あなたがたはその地にあって、二倍の賜物を獲、とこしえの喜びを得る。

(イザヤ61章7節)

神様は「良い」神様で私たちを愛する子供として見ています。私たちに対し「良い」計画を持っているのです。どんなものでも益としてしまう力を持っているのが神様なのです。神様を信じて生きるからと言って楽な人生は待っていないかもしれませんが、「良い」人生は待っています。悲しみを知っている、練られた品性を持つ人を神様は祝福されるのです。神様は私たちの手を放しません。神様は素晴らしい計画をあなたに対して持っています。何も変わらないように見えたとしても、神様は働いています。

あなたがたは、さきの事を思い出してはならない、また、いにしえのことを考えてはならない。見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起こる、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。

(イザヤ43章18-19節)

顔をあげて、とこしえの喜びへと導く神様の計画に期待して歩んでいきましょう。

 

佐藤真理子(さとう・まりこ)
東洋福音教団所属。
上智大学神学部卒、上智大学大学院神学研究科修了、東京基督教大学大学院神学研究科修了。
ホームページ:Faith Hope Love

 


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