⑹ 良心の囚人*ウラジーミル・カラ=ムルザ著「教会と戦争」  殺人と暴力の拒否はキリスト教の基本です


ロシアの著名な反体制派政治家でありジャーナリストであるウラジーミル・カラ=ムルザ(41歳)は、ロシアのウクライナ戦争を批判したために、国家反逆罪などで25年の刑を言い渡され、現在、矯正コロニー(刑務所)で服役中です。

ロシア正教徒であるカラ=ムルザは、刑務所で論稿「教会と戦争:殺人と暴力の拒否はキリスト教の基本です」をまとめ、独立系メディア「メドゥーザ」に寄稿しました。以下は、そのご紹介です。

大井靖子・訳(カトリック調布教会)

ジョージ・オーウェルの世界に追いついたロシア

ロシアはだいぶ前からオーウェルの後を追ってきたが(ジョージ・オーウェル『1984年』を指す—訳者注)、2022年2月以降、ついに追いついてしまった。つまり、「戦争とは平和、自由とは隷属、無知とは力」をあらわす。どんな無分別な歪曲も、どんな下劣なすり替えも、黒を白と言いふくるめるような厚かましい行いも、今や驚いてはいられなくなったようだ。

いずれにせよ、こうしたことが堰を切ったように進む中でも、トヴェーリ州の、イリヤ・ガヴルィシコフ神父が聖体礼儀のとき、ウクライナに対する「勝利」ではなく、平和を祈ったということで、公にカメラの前で謝罪させられたという最近のニュースに、わたしは衝撃を受けた。しかも、謝罪を迫ったのが、ロシア連邦保安庁でもなく、調査委員会でもなく、カディーロフ**でもなく、イリヤ神父の上司の主教というのだ。

ルジェフおよびトロペツ主教アドリアン(ウリヤーノフ)は「懺悔を行わなかったら、司祭職を剥奪する。どこへでも行きなさい」と、イリヤ神父に直接、言い渡したが、この猊下の脅迫にはそれなりの根拠があった。というのは、以前、同様の「過失」を理由に、モスクワのイオアン・コヴァーリ神父が司祭職を剥奪されているし、コストロマ州の主教区裁判では、カラバノヴォ村の復活聖堂のイオアン・ブルジン神父が反戦的態度を理由に奉神礼を禁止され、「異端的平和主義」を告発されているからである。

こうした話は、国内の至るところ、ロシア正教のさまざまな大主教管区で、ますます増えつつある。キリスト教の聖職者が聖書の戒めに従って、流血の惨事は許さないと公に表明したり、平和を訴えたりすると罰せられるのだ。こんなことは、恐らくオーウェルでさえ、思いもつかなかっただろう。

同じようなニュースに接して当惑する人もいるだろう、せせら笑う人もいるだろう、また、人の不幸を喜ぶ人もいるだろう。しかし、わたしはひとりの正教徒として、不当にも非難をあびせられている聖職者に、また、カエサルの権力をキリスト教信仰の基本より上に置くような主教たちが奉神礼を行う教会に対して、痛みと、悲嘆と、深い悲しみを抱かざるを得ない。

なぜなら、殺人と暴力の否定はキリスト教の、まさしく基本であり、旧約の、弟の血を流したカインへの呪い(創世記4:10~12)、十戒の掟「殺してはならない」(出エジプト記20:13)、剣と敵に関する預言者の言葉「国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」(イザヤ書2:4)から、新約の、山上の説教「平和を実現する人々は、幸いである」(マタイ5:9)、救世主の弟子たちへの呼びかけ「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26:52)まで、聖書には明記されているからである。

戦争や暴力に関して同様の教えは、初期キリスト教の原典や教父たちの格言にも見られる。3世紀にまとめられた『使徒伝承』には、「戦士を志願する求道者、あるいはキリスト教徒は、神を畏れないが故、排除しなさい」とある。つまり、キリスト教徒にとっては、兵役という考えそのものが否定すべきものなのである。司教であり神学者であったカルタゴの聖キプリアヌス(200頃~258)も、「聖体をいただく手を剣と血で冒涜してはならない」と教えている。

比較的新しい時代の、戦争拒否の重要な証言のひとつに、最近、ロシアで刊行されたスピリドン(キスリャコフ)神父(1875~1930)著『教会の前の司祭の告白』があげられる。これは第一次世界大戦のとき、従軍司祭をつとめたスピリドン神父の体験がもとになっている。

この本の中で、スピリドン神父は「わたしは聖なる機密をなんに変えてしまったのだろう?  兵士に、自分と同じ兵士を殺せ、と激励する強力な手段にしてしまったのではないだろうか? 戦闘に出かける兵士たちへの聖体礼儀を通して、わたしはキリストご自身を人を殺し、人に殺されるために送ったりしたのではないだろうか?」と自分に問いかけている。

 

ロシア正教の基本理念に矛盾するウクライナ戦争

指摘すべきは、ウクライナ戦争に関して、モスクワ総主教管区高位聖職者たちが取った立場はキリスト教信仰の基本だけでなく、ロシア正教自ら作成した公文書にも矛盾するということである。

公文書のロシア正教の社会的基本理念には、「正教会と正教の正統な機構は国家に対して援助・協力することはできない」(現総主教キリルが府主教だったときに、直接、参加して採択された)と謳われ、「内戦、あるいは侵略の行使」に直接、触れている。この理念によれば、教会は「ロシア人とウクライナ人はひとつの民族」というクレムリンの神話が受け入れられたとしても、教会が戦争を支持してもいいことにはならないし、侵略戦争の現実の様相からも、国連総会での再三の決議・確認からも戦争拒否はなおさら求められる。

前総主教アレクシー2世は、俗世的権力に寛大な「セルギイ路線」***をとったことで、当然ながら、たびたび批判されたが、それでもチェチェン戦争では明確に公共の立場をとったことに、わたしは注目したい。アレクシー2世は第一次チェチェン戦争の初期、「教会は、流血の紛争の、罪のない犠牲者を守るために声をあげます」と表明し、「国家的利益にとっては、いかに公正で、合法的な理由があろうと、平和な住人への犠牲と苦しみを正当化することはできない。いかに有益な目的であろうと、結局は、悪に悪を積み重ねになりかねないような暴力手段によって目的を達すべきではない」と続けている。

ところが現在、同じような発言をした神父には、奉神礼を禁じ、司祭職を剥奪する、と脅しているのである。

以上、わたしは現在、進行中の出来事によって、わたしの中に生じた痛みや悲嘆、深い悲しみを記した。しかし、わたしにはもうひとつの感情がある。それは感謝である。自分の身に降りかかるであろう結果を度外視し、戦争は停止すべきと声を上げ、管区の主教に逆らってまで本来のロシア正教の名誉を守っている神父たちへの感謝である。

そうした行いがあったということは、わたしたちの国の多くの人にとって重要である。そのことがとりわけ重要になるのは、わたしたちの社会がやがて必ず、現在、進行中の出来事を考察し、その責任の所在─教会も例外ではない─を問うときであるが、それは戦争が終わるときである。

 

《語注》

*良心の囚人:国際的人権NGO アムネスティ・インターナショナルによって指定される。非暴力にもかかわらず思想信条、言論、宗教、人種などを理由に不当に逮捕された人をいう。

**カディーロフ:2007年、プーチン大統領からチェチェン共和国首長に指名。プーチンの強力な同盟者。

***セルギイ路線:ソ連の共産主義政権に対する無条件の忠誠政策を指す。1927年、セルギイ府主教によって発布。ソ連時代のモスクワ総主教庁の権力に対する態

度の基礎を形成した。

《出典》メドーザ2023年11月1日付け

https://meduza.io/feature/2023/11/01/v-osnove-hristianstva-nepriyatie-ubiystv-i-nasiliya


⑹ 良心の囚人*ウラジーミル・カラ=ムルザ著「教会と戦争」  殺人と暴力の拒否はキリスト教の基本です” への1件のフィードバック

  1. 2023年のクリスマス。
    神さまに祈ります。
    神さまは人間たちの戦いを「良し」としてはいません。
    それぞれの立場を主張し戦いを行うのは、全て人間の仕業です。
    傲慢で自尊心の塊である人間の所業を神さまは高みから見ておられるでしょう。
    神さまの思いに意を馳せ、愚かさに気付くのも人間です。
    この小さな地球の生き物としての人間たち。
    地球環境に感謝し自らを滅ぼす行動を慎み、人間としての種が平和に永続できるますように。

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