神への信仰 ヘブライ人への手紙11章1節


佐藤真理子

信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。

(ヘブライ人への手紙11章1節)

今月は宗教改革記念日があります。宗教改革者としてもっとも有名なルターは、救われるために必要なのは「信仰のみ」と主張したことで有名ですが、これはプロテスタント教会だけの理解ではありません。ルーテル教会とカトリック教会は救いが信仰によってのみ与えられることについて共同宣言を出しています。

「信仰による救い」はロマ書やガラテヤ書をはじめ聖書が主張していることであり、その聖書は東方教会、カトリック、プロテスタント教会を問わずすべての教会の基盤です。ゆえに、聖書が主張する「人は信仰によってのみ救われる」という事実はある特定の教派にのみ適用されるのではなく、すべての信仰者にとってあてはまる言葉なのです。

 

信仰とは神に対する信頼です。人は何かに対する信頼を持って生きています。それは個人の信条や関わる人へも向けられますが、もっとイメージしやすいものでも説明できます。例えば椅子に座るとき、私たちはその椅子は座っても大丈夫だという確信をもってそれに全体重を預け腰かけます。ものを食べるとき、私たちはそれを食べても死ぬことはないという安心感を持ってそれを口にします。ほとんどの場合、こういった行為の際に椅子や食べ物に疑いを持つことすらもないと思います。

信頼とはそのようなものです。疑いなく委ねてしまう状況を指します。その信頼を向ける相手が神、イエス・キリストが示した唯一の神へと向けられることが、信仰なのです。

 

聖書からこの「信仰」についてより掘り下げようとすると、今回冒頭に掲げたヘブライ人への手紙11章11節のみことばに出会います。

信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。

(新共同訳 ヘブライ人への手紙11章1節)

この言葉は、聖書の原語であるギリシャ語で読むと、次のようにも訳せるニュアンスのある言葉です。

信仰は期待している(希望している)ことの「実体/保証」であり、見られていない「現実」の「証明」である。

私自身が強調したい言葉に個人的に「」をつけましたが、極めて強い言葉で説明されている言葉であるのがわかると思います(英語訳だと日本語より原語に近いニュアンスで理解できると思います。「Now faith is the substance of things hoped for, the evidence of things not seen.」KJV)。

つまり、信仰とは単なる「こうなったらいいな」という希望的観測や価値観ではなく「すでにあるものを見る前から確認するもの」なのです。何か実体のある、ともすればさわることができるような確実にある現実への信頼や確信とも言えます。聖書の伝える信仰とは、漠然とした一つの考え方ではなく、確かにすでにあるものを確認することなのです。

 

旧約聖書において、原語では神による将来の預言が完了形で語られることがよくあります。これは単に原語の性質からくるものというだけではなく、あまりにも確かであることを既に起こったこととして語ることからきているものでもあります。神にとって「こうなるかもしれない」などということはなく、神の語ることは「既にある」確実なものなのです。

神にあってわたしたちが願うことは確かに成るのです。

キリストを信じる人とは、単に教会へ行く人を指すのではなく、世に出てキリストのように生きる人です。キリストのように神と人を愛して生きていると、神の思いと信じている人の思いは一致してきます。だからこそ、その人の願いは神と一致するのです。それは次の聖句に示されています。

あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。

(新共同訳 フィリピ2:13)

それゆえ、神と親しく生きているならば、祈りは必ずきかれます。神は人を幸せにしたくて創造しました。だから、神は必ずあなたに本当の幸せを届けたいと思っています。祈っていることは、先ほど書いたように、神のなかでは「既にある」確実な現実です。

祈り求めるものは既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。

(新共同訳 マルコ11:24)

 

信仰を持っていても困難に出会うことはあります。なぜ良い人にも苦難があるのか、それがテーマになっているのはヨブ記ですが、神は「善い人に苦難が起こる理由」についての答えをヨブ記で示しているのではありません。

ただ神は圧倒的に神であることを示しているのです。しかし、この書の最後でヨブは失ったと思われたものが全て二倍になって返ってくる祝福を得ます。これは神と共に生きる人の原則なのです。

あなたがたは恥に代えて、二倍のものを受け、人々は侮辱に代えてその分け前に喜び歌う。それゆえ、人々は自分の地で二倍のものを所有し、とこしえの喜びが自分のものとなる。

(新改訳 イザヤ61:7)

聖書は苦しみの理由ではなく「良く生きる人、神とともに生きる人には困難や苦難によって何が起こるか」を示しているのです。ヨブはヨブの友人のように表面的に信仰深い振る舞いをしているわけではなく、心から神に自分の正直な思いをぶつけ、困難に出会ったときに綺麗ごとを並べることなくまっすぐに神にぶつかります。このような姿勢を、神は神と共にある人の生きる姿として、良しとしたのです。

神とともに生きる人に困難が起こると、その人は成長し、乗り越え、より強固で深い信仰を持つようになり、同じように苦難にある人を理解したり慰めたり助けたりできるようになります。私自身、困難を通った人の言葉には真実があると感じます。そういった人の言葉にとても励まされるのです。特に、自分が出会う出来事を先に乗り越えた人の言葉は本当に慰めになるのです。そのように周りの人に生きる力を与えられる人になることは、人が生きる上で最も幸せなことではないでしょうか。神の前に問題はありません。神の前には計画があるのです。

 

先日ヨシュア記を読んでいたとき、とても印象的な箇所に出会いました。

ヨシュアがひきつれた民はヨルダン川を渡ろうとします。その際、主の契約の箱(モーセの与えられた十戒の記された石板を収めた箱)をもった人々が川を渡るとき、神はヨルダン川を干上がらせて彼らを渡らせるのです。ヨシュア記にはつぎの言葉があります。

あなたたちの神、主は、あなたたちが渡りきるまで、あなたたちのためにヨルダンの水を涸らしてくださった。それはちょうど、我々が葦の海を渡りきるまで、あなたたちの神、主が我々のために海の水を涸らしてくださったのと同じである。それは、地上のすべての民が主の御手の力強いことを知るためであり、また、あなたたちが常に、あなたたちの神、主を敬うためである。

(新共同訳 ヨシュア4:23~24)

モーセたちのために海に道を作った神は、またヨシュアたちのためにも道なき場所に道を切り開いたのです。神とは不可能を可能にする方であり、いつでも信じる者の味方なのです。

信仰とはあらゆる教派のすべてのキリスト者にとって必要な唯一のものです。信仰こそが、キリスト者をキリスト者たらしめる唯一のアイデンティティです。それは単なる考え方ではなく、絶対的な力を持っている神という現実を心の底から信頼し確認、また確信することです。神は私たちがいま目にしているもの以上に確かであり、遥かに力を持っています。今どんな状況にいたとしても神はそれを覆し益とする力を持っています。希望の源である神を信じて、期待と共に明日もまた歩んでいきましょう。

佐藤真理子(さとう・まりこ)
東洋福音教団所属。
上智大学神学部卒、上智大学大学院神学研究科修了、東京基督教大学大学院神学研究科修了。
ホームページ:Faith Hope Love

 


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