縄文時代の 愛と魂~ 私たちの祖先はどのように 生き抜いたか~ 7.子抱き土偶の復元


森裕行(縄文小説家)

5000年前の八王子市宮田遺跡の土偶は頭部を欠損した土偶であるが、一握りの土塊から復元しさらに欠損した頭部まで復元しようという試みがあった。土偶を通し作者と復元者の対話から縄文人のリアルがあぶり出されてくる。

7.子抱き土偶の復元

失われた土偶の顔は空の月を赤ちゃんと一緒に見ていたのだろうか、それとも赤ちゃんを見ていたのだろうか。

この時期の誕生土偶(女性像、妊婦像、壺を持つ妊婦、腹部に鳴子を含む像、出産時の像、赤子をおんぶする像等)で頭部が残されているものは斜め上方を見ている像が多い。そういったことからこの子抱き土偶の母も斜め上を見ているのではないかと想像した。母子が同じ事物を見ている図は日本に多く、浮世絵の母子像や小津安二郎の映画ではないが仲良く縁側に座って同じものを見るという図が浮かんだからだ。

(グアテマラ マヤ地方 先古典期後期 BC400~100 BIZEN中南米美術館 筆者撮影)

そして、海外では調べた中で古代マヤ古典期の母子像の母も斜め上を見ていた。では、どんな頭部だったのか、宮田遺跡の近くの楢原の土偶のような頭部だったのかなと思ったが根拠は希薄で単なる想像の域を出ない。

(「鳴る土偶」楢原遺跡 八王子市郷土資料館 筆者撮影)

そんな私に助け舟があった。多摩考古27号(19975月)に掲載された故・浅川利一氏の「海を渡った子を抱く土偶」の記事と、テラコッタ製の記念品「子守歌の土偶」を拝見する機会があったことだ。浅川利一氏は元玉川考古研究所所長で私立大学協会とのご縁があり協力され、1996年のIAUP(世界大学総長協会)サンフランシスコでの理事会で記念品として頭部を復元した子抱き土偶を、「子守歌の土偶」として理事の方々に配布され好評を得たそうだ。今回はこの記事や写真と浅川利一氏の「縄文土器と縄文人」(多摩のあゆみ15号 1979年)を元に頭部復元の物語を味わっていく。

子抱き土偶は南多摩高校地歴部の高校生と中村威教諭らの指導で発掘されたが、その土偶の復元は浅川利一氏によって行われた。雲母を少量含み焼成が余りよくない一握りの土塊のような土偶は、菓子箱の中で綿に包まれていたそうだが、丁寧にピンセットを使い約4週間かけて復元されたとのこと。そして、浅川利一氏の土偶や土器に対する意気込みは労力だけで測れるものではないようだ。「縄文土器と縄文人」を読むと良くわかる。土器に描かれた文様(沈線)がどの部分から書き始めて一筆で描かれ、作者が右利きか、失敗したときの気持ちまで読み取られている。事物を通して作者を把握するのはただ表面的に眺めるだけではなく、真剣な魂の対話のように誠実に五感で向き合う必要があるようだ。

今でもロボットを心の通う鉄腕アトムのように仕立てたり。針供養のように身近な使用済みのモノを温かく供養する特異な日本文化であるが、縄文時代は貝塚の内容物を見ると日本のモノに対する文化の原型が色濃く残っているように思われる。縄文文化の本質は「悉皆国土草木成仏」とか「神は万物に宿る」などと考えられる話も時々聞く。キリスト教的に言えばすべての被造物を慈しむ三位一体の神と言うのであろうか。誠心誠意、五感で事物に接していた縄文人を理解するには同じように対話する必要がありそうだ。「知るのではなく分かる」という浅川利一氏の言葉は実に重い。

さて、浅川利一氏は、土偶を観察され、頭部は土偶の後方から力が加えられ破損し、折れ口から三角形の結髪した形を考え、左肩がやや上がっていることから、母親の顔が乳児を見入っていると推定された。

さらに頭部の形状は、ズボンの膝部分や上着に描かれていた刺繍でつけられた連続刺突文の渦巻き模様を手掛かりに、次のA,B,C,Dの頭部を選び参照しつつ完成されたそうである。

(多摩考古 27号 1997年 30Pより引用)

なお、連続刺突文の渦巻き模様は山梨県出土の1618点の土偶片の中で釈迦堂遺跡の一点(足の部分)だけが相当したとのこと。ところで、この時代に刺繍があったのかと不思議に思われる方がいらっしゃると思われるが。骨針が縄文時代には草創期からあり、細密アンギン(漆を濾したりできる細かさ)を織る技術(東京の縄文学 安孫子昭二著 之潮 P122~)も既にあるので刺繍も不思議ではない。

(歴民博研究報告の37集(特集 土偶とその情報)1992 安孫子昭二、山崎和巳「東京都の土偶」より)

さて、当初の私の想像が外れて、母親が斜め上の聖なる月を見るのではなく生まれたばかりの乳児を見ていたようだ。その意味を考えてみよう。聖なるものに顔が向くのは人の常であるのだろうから、乳児が聖なる存在であり空の聖なる月と同じかそれ以上ということになる。母性愛であれば当然かもしれないが当時の宗教的意味も重なっていると思われるのでそれを考えてみる。

仮に土偶をウケモチノカミと仮定してみると、ウケモチノカミは死ぬことで食べ物になるが、これは死と再生の考え方で乳児も母と同じウケモチノカミなのだろう。それ故に母子の顔は似ていると想像される。

母子が顔を見つめあうことは、カミが自分自身を見つめていることになり、これは現実の人が内在の神を見つめることに重なるのではないだろうか。

宗教でよく言われる内在と超越の思想がすでにあったのではないだろうか。キリスト教であれば、人の身体は神の神殿という聖パウロの言葉があるし、仏教では仏性なのだろうか。子抱き土偶の作者は単なる母子像を作ったのではなく、当時の厳しい環境の中で、深い愛について思索をめぐらしていたのではないだろうか。皆様はどのように考えますか?

今回まで3回に渡り、一握りの高さ7㎝の「子抱き土偶」を通して、縄文人の愛と誠に迫ってみた。今回は資料提供で多大なご協力をいただいた安孫子昭二氏に深く感謝いたします。


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