千葉悦子(吉祥寺教会所属・キリシタン史研究者)
当サイトに、今年12月予定の「ローマ・シチリア巡礼」を告知させていただきました。
江戸・元和の大殉教400年記念・特別企画 「レンゾ神父と行くローマ・シチリア巡礼9日間」
サイトをお借りし、数回にわたり、それに関連する記事を書いていきたいと思います。
私が生まれ育ったのは、宮城県気仙沼市。漁業で栄える田舎町です。幼稚園も多い中で、父は子供三人の幼稚園として「気仙沼カトリック幼稚園」を選びました。同居する祖母が陰で「なしてヤソの幼稚園なんかに!」と怒っていたのを覚えています。まだキリスト教が蔑視される時代でした。
そのヤソの幼稚園は、 私とっては楽園でした!ピクニック、運動会、聖劇も楽しかったけど、何気ない園生活の一つ一つが本当に楽しかった!きっと、園長・小野神父様の温かい心が土台にあったからでしょう。(後年、同級生に菅原茂・現気仙沼市長や、イエズス会の菅原裕二神父がいた事を知りました)。当時、姉と私は夕食の前には「天にまします」をお祈りしていたそうです。
ある日、何かの用事で司祭館に入った時のことです。壁に大きな十字架があって、私はそれを見上げました。十字架には一人の人が―手と足に太い釘を打たれ―はり付けにされているではありませんか。
〝わぁ痛そう!〟〝かわいそう!〟〝なんで?なんで?〟
今ふりかえると、私の原点はこの場所に行きつきます。
その後、小・中学は公立校で過ごし、そして高校で
又偶然にも仙台の聖ウルスラ学院に入学することになりました(唯一受験した高校に落ち、親が必死に探してきた高校で、私は泣く泣く入学したのです)。
廊下の壁には「人が学ばなければならない最も大切なこと、それは人を愛するということです」という聖句。公立校ではついぞお
目にかかったことのない「愛」という文字にカルチャーショックです。そしてマリア像やステンドグラス・・学院は幼稚園を思い出す懐かしにさに満ちていました。砂漠に水が吸い込まれるように、私の心に福音が吸い込まれていきました。私を最も捉えたのは「人を許す如く我らの罪を許し給え」という言葉でした。
さて、ウルスラ学院にはCLCがありました。Sr.梅津の勧めで私は入部しました。そして、夏の練成会か何かの時でしょうか、ある時、イエズス会のリバス神父と助手として土屋至さんが東京からいらしたのです。エネルギッシュで豪快なリバス神父と土屋青年とのコンビです。ある時、リバス神父は言われました。「日本は殉教者の国ですよ。数万人とも言われているね。これは世界的にもすごいことですよ。私の母国スペインは少数の殉教者をそれはそれは褒め称えます。日本の信者はあまり関心を持たないね~。それが残念でたまらないよ」
リバス神父のそんなつぶやきは私の心の底から去りませんでした。(その種はゆっくりと育ち、私が日本キリシタン史に打ち込むことになったのは数十年後のことです。私のキリシタン史研究の原点はリバス神父様なのです。)
そして高校三年の時にもう一人、ドミニコ会の押田成人神父との邂逅がありました。
卒業生のための修養会の講師として押田神父が仙台に来られました。神父さんは独特のオーラをもっておられ、私は登壇場へと歩いてこられたその額を見た時に(顔ではなく、オデコです)〝生涯の師だ〟と直観したのでした。10代の頃の感受性とは不思議なものです。
大学生となり、仙台から上京した私は、その年から押田神父のいる長野の高森草庵に通うようになりました(そうそう、高森への道順を教えてくれたのも土屋さんでした)。JR信濃境駅から歩いて30分。高森は神父を慕って日本ばかりか世界中から求道者が訪れる場所でした。私は三年あまり足繁く通い、貴重な経験をすることとなりますが、ヨーロッパ的キリスト教ではない、日本のキリスト教……というより、イエス・キリストを知ったのは押田神父との出会いを通してだと思います。
押田神父は〝キリシタンと繋がることなしに日本の信徒は本物にはならない〟と言いました。その言葉もまた折に触れ
思い出す言葉です。
さて、私は大学を卒業すると同時に結婚したのですが、相手は北海道の松前出身で、松前に106名の殉教者がいることを教えてくれたのが非信者の彼でした。そしてしきりにこう言うのでした。
「蝦夷キリシタンの歴史なんか地元は無関心だ。このままだと埋もれてしまうよ。それを掘り起こすのがあなた達の使命じゃないの? 蝦夷キリシタンを調べなよ」
そう言われても私はずーっと渋っていました。だって、日本史は得意じゃないし、ましてキリシタンの歴史なんてすごく大変そうだし・・。
しかし、ある時、夫は「給料を払うから、調べて書いてくれない?」とまで言い始めたのです。給料?……なら、やってみようかな。
そんな、浅ましい動機によって私はキリシタン研究を始めたのです。
そして、夏休みに義実家に帰省するたびに、当時まだご存命だった郷土史家の永田富智先生のご自宅でお話を伺ったりしました。
蝦夷キリシタンを調べつつ、物語を牽引しうる中心人物を探していました。そこで行き当たったのが「ジェロニモ・デ・アンジェリス」というシチリア出身のイエズス会士でした。
デ・アンジェリス神父は日本を最も長く歩いた宣教師と言われています。長崎に上陸後、京都、駿府、東北を布教し、1618年、欧州人として初めて蝦夷へ渡りました。1621年、再渡航し、布教の傍ら蝦夷地を調査し、上長へ長文の『蝦夷報告』を書きました。そして1623年12月4日、元和・江戸の大殉教で殉教しました。1637~8年の天草・島原一揆制圧後、幕府はキリシタン撲滅を国是とし、全国津々浦々にわたるキリシタン狩りを断行。1639年、松前周辺の金山で働く106名のキリシタンを処刑しました。それが蝦夷キリシタンの殉教です。
『蝦夷報告』はチースリク神父編『北方探検記』(昭37)に収録されています。チースリク神父はイエズス会日本年報や書簡類を丹念に調べ上げ、デ・アンジェリス神父の生涯を本の冒頭に書かれました。蝦夷キリシタンを書く上で、これだけ史料が残っていれば充分だと考えました。
そしてその頃からいつか活字にする日を夢見て、神父のことを調べ始めました。私はアンジェリス神父が想像を遥かに超え、波乱万丈の生涯を送った人物であることを徐々に知っていくわけです。
次回「2」では、デ・アンジェリス神父の生涯を書いてみたいと思います。
アンジェリス神父についての連載読物をお送り頂きありがとうございます。
暑い日中に読みましたが清涼感を頂きました。
八ヶ岳と大空をバックにした
高森草庵(お御堂も)の写真がとても良かったです!!
吉川さん
コメントありがとうございます
高森は〝ふるさと〟そのものです。
千葉様
幼い頃からのキリスト教との関わりと、いくつかの偶然とご縁があり、今の千葉さんのクリスチャンとしての元を形成したのですね。
アンジェリス神父さんは、本当に日本に来て、沢山の地域を周り、精力的に布教して周り、最後に、札の辻での殉教を果たされ、並々ならぬ信仰心と信念がおありだったのでしょうね。
いつも、思いますが、何故昔のキリシタン達は、命を落としてまで、その信仰を貫けたのだろうと思います。
次回、「アンジェリス神父さんの生涯」も楽しみです。
佐野さん
丁寧なコメントをありがとうございます。
キリシタンの信仰の強さ・・本当にそうですよね。
そして、一人一人にドラマがあって、信仰を貫いた人、捨てた人、捨てた後に迫害者となった人・・ふるまいは違っていても、それぞれが究極の選択を迫られ、究極の決断をしたのだと思います。
キリシタン時代の誰に共鳴するのかは、今度は私達一人一人によっても違う気がします。
汲めども尽きぬ宝がキリシタン時代にはありますよね。
AMOR 陽だまりの丘への投稿ありがとうございます!
千葉さんの デ・アンジェリス殉教司祭への旅は
とりもなおさずイエスキリストへの求道の旅だったのだと
感銘深く拝見しました。
最初はお父様から始まって特に思春期のリバス神父、
押田成人神父との出会い、真の言葉との出会いを通して
神の導きの手がくっきりと浮かび上がる様子に深く感動しています。
そして結婚のご伴侶との出会いが蝦夷キリシタン殉教の
探究に向かったことなど興味はつきませんでした。
続きの2回目を楽しみにしています。
安津子さん
コメントをありがとうございます。
「最初は父から」・・確かにそうですね。後年、なぜ私達をカトリック幼稚園に入れたのかを聞いたことがありました。「キリスト教のリベラルな所が好きだった」と父は言いました。若い頃、聖書を読んだこともあったようです。マリアとマルタの話を私ら姉妹にしてくれたり・・聖書に何か感じる所があったのでしょう。私の夢に声援を送ってくれたのも父でした。
いまごろ・・父は草葉の陰でくしゃみしていると思います。
千葉悦子さま
千葉さんの信仰の歩みが、お父様からはじまって小野神父さま、リバス神父様、聖ウルズラ学園、そして押田成人神父、高森草庵へと続いてきたことの不思議。そしてクリスチャンでない人生の伴侶から、蝦夷キリシタンについて調べるように勧められて、しぶしぶ調査を始められ、現在の研究と著作につながっていること。。。神様の導きに感謝ですね。千葉さんの中にある内なる生きた泉のような流れは、確かにキリシタンの信仰の歩みとつながっていると実感することができました。キリスト教は歴史の中で目を覆いたくなるほどの過ちも犯してきましたが、殉教者の信仰の歩みは確かな本物を伝えていますね。自分がその立場になったら、そうなれるかどうかはわかりませんが、ほんのはしっこでもその歩みにつながる一人でありたいと思います。
石井さん
コメントを嬉しく拝読しました。
キリスト教の歴史の中での過ち・・本当にそうです。また、キリシタンが迫害されたのは、内部分裂が発端だ(つまり、修道会同士の争い、修道会内のセクト的対立等々)と論ずる学者もいます。確かに、世界宣教の揺籃期は失敗も行き過ぎも多かったのです。そういう不完全な中でも福音は伝えられ、本物の信徒を生み、そしてそれは地下水のように命脈を保って250年後の信徒発見につながるのですよね。
千葉さん
土屋です。
いま、初めてこの記事を読み感動しました。
千葉さんとは本当にふしぎなご縁でつながっています。
リバス神父さんと「土屋青年」がウルスラ学園を訪問した(じつに40年くらい前のことです)ことは一部覚えていますが、その中に千葉さんがおられたことは覚えていませんでした。
それから高森草庵への案内も私がしたように書かれていましたが、これも記憶がありません。私はは高森についてはよく知らない。ただ私の妻の千惠子さんはよく通っていました。
もう一つ私が不思議な縁だと思ったのは、私が「テレビCMで現代を知る」という授業を行っていたときに、それをどこから聞きつけたかそのCMのビデオを貸してほしいといわれ、北京で原かれた世界女性会議でレポートしたいという申し出があったことでした。千葉さんの好奇心のユニークさと旺盛さと行動力に感動しました。
土屋さん
読んで頂いて嬉しいです。
そうなんですよ。ウルスラでお目にかかった時(50年前(笑))のこと、私はよく覚えています。
そして上京してすぐ駒場のイエズス会修道院にリバス神父様をお訪ねした時、土屋さんもいらしていて、高森への道順を教えて下さったのでした。千恵子さんとは一時押田神父さんの出版社思草庵で一緒にお仕事したこともありました。
95’世界女性会議の時は、私は〝日本のCМの中の性差別〟のワークショップの準備をしていました。それに関連しインターネット活用法の市民講座に出た時、活用例として清泉女子校の映像(ボカシが入ってましたがすぐ分かりました)が使われ、そこで「テレビCМ~」の授業を知ったのです。それでご連絡しお会いしてお話ししている内に、〝あれ?この方はもしや・・〟と分かったのです。
2012年有馬晴信祭の時は映像機材を持って駆けつけて下さり、記念誌にDVDを加えることができました!
今回のシチリア巡礼でも多大な御助力に感謝です!
こんな風に数十年に一度、人生の要所要所で目の前に現れる土屋さんは、私の守護天使に違いないと思っています。
水野です。なかなかうまく繋がらず苦労します。
機械オンチの私。でも今回の旅では頑張ろう、と強く思いましたよ。熱のあるうちに書いておこうと。
で、デ・アンジェリス神父様のご生涯について調べてみよう、と思って見つけたあなたの記録。素敵です、アンジェリス神父はきっと、素晴らしいと感じるでしょう。私は蝦夷地を書きたいと思っています。最後の砦であった蝦夷地。そして誰もいなくなった蝦夷地。果たしてそうだったでしょうか。
永田富智さん、泉 隆さん、みな仲間でした。他に室蘭文芸では沢山仲間がいた。でも今は私だけ。何とかしなければ、と思っていたところの旅です。
またあなたに必要な物がありましたなら、どうぞおっしゃって下さい。 水野 2023/11/12