フランシスコ・ザビエル 野田 哲也(カトリック調布教会)
私たちは、マザー・テレサという人をどのように知っているのだろうか。あまりにも名前が有名なゆえ、そのようなことを深く考えたことはないのではないだろうか。マザー・テレサが聖人となるこの時に、もう一度深くそのことを祈りを持って内省し、同時期に生きた福音を味わう愛の手が差し伸べられていることに気が付く必要があるのではないだろうか。もちろん、私たちは自分自身のすべてを知りきることは出来ない。ましてや、他人のこととなると尚更である。しかし、自分自身の内なる神さまを知るように、聖人となるマザー・テレサを身近に感じるように知ろうとする試みは、神さまの恵みに違いない。マザーハウス(MC〈マザー・テレサの修道会〉のコルカタの本部)の事務局で働いているシスターから間いたあるエピソードを紹介したい。些細なエピソードであるが、マザー・テレサのすでに聖人であったと信じるに足りる人となりが良く分かると思う。
それはある暑い夏の夕方のマザーハウスでの出来事であった。これから夕の礼拝という時間に電話が鳴った。そのシスターが電話を取ると、相手はいきなり大声で「Good Morning!」とハイテンションで言い、怒涛の如く話し掛けて来た。電話は南米からであった、彼女は唖然とした、これから私たちは夕の礼拝の時間なのに、激しい暑さに身体も心も疲れ切っているのに、こちらの事情や時差のことも考えず、この人は何を考えているのだろうと思った。だが、それはマザーヘの電話であったので、少し悩んだが、近くにいたマザーに受話器を渡し、彼女はチャペルヘ歩いていくと、後ろからマザーの楽し気な大声の「Good Morning!」が聞こえた。その瞬間、彼女は再度唖然とした、マザーには到底かなわないと思った。
誰もが普通は彼女のように思うだろう。コルカタの夏の暑さは尋常ではない。40度をゆうに超える激しい暑さであり、ましてや粉塵舞う空気の悪さもあり、一日働いた身体はほんとうに疲れ切る。シスターたちにとって―日の疲れを癒す祈りの時間は命を繋ぐほどの大切なものであり、こちらの事情も分かってほしいと思うのは当たり前だと思う。だが、マザーは違う。この場合受話器の向こうの相手だが、目の前の人にとって最良のことを如何なる時も行おうと努めるのであった。その最良のこととは相手に内在する神さまを喜ばすことであった。
「自分よりも他人を大切にする」のがマザーである。このことは彼女も十分に分かっていたが、常識に囚われ、疲れもあり、そう出来なくなっていた自己の弱さに愕然とした。だが、彼女はマザーのなかに神さまを見た、マザーはまさに愛の行い人であった、すべての行いのなかにはイエスの香りを漂わせ、イエスとの完全なる一致をしていたと、マザーの存在そのものが福音であったと思わずにはいられない。
昨年マザーの列聖の話が噂話として出始めた頃から、私がボランティアをする山谷のMCプラザーたちはこう言っていた。「マザーが聖人になるか、ならないかは心配していない。すでにマザーは聖人であると、私たちは思っているから」と。私もそう思っていた。そう思っていたが、やはり実際に列聖されることは心から嬉しい、それは間違いなく彼らも同じだと思う。
(初出:カトリック調布教会広報誌「シャローム」2016年9月号)