──ヨーロッパ・シノドス大陸総会を終えて
≪2023年10月にローマで開催されるシノドス通常総会第一会期を前に、2月5日~11日、プラハでヨーロッパ・シノドス大陸総会が開かれました。ウクライナ軍事侵攻が長期化する中、侵攻当事国ロシアの代表団はどんな感想をもたれたでしょうか?影響はなかったでしょうか? バチカンニュース・ロシア語版やRIA ノーボスチのインタビュー記事からお二人の感想や願望をご紹介します。(紙面の都合上、一部省略しました。パーヴェル・ペッツィ大司教については4月23日AMOR 掲載「部分動員令に関するロシア・カトリック司教協議会からの訴え」を参照してください。)》
プラハの総会でわたしが感じたことで、強調したいのはカリスマに注意すること、同様に否定的な意味で、ある種の社会学的傾向が見られたことです。つまり、シノドスの道を司牧的ニュアンスや、肝心な神学的ニュアンスよりも、社会学的ニュアンスで受け止めようとするリスクが見られました。
昨年2月24日、ウクライナ侵攻後、ロシアのさまざまなカトリック共同体や家族の中に、また人びとの心の中に、理解不可能な現実が生じました。わたしたちロシアのカトリック信者の中には、出身がロシア、ウクライナ、ベラルーシ、リトアニアの人びとがいます。もちろん、ポーランド、ドイツ出身の方もいます。紛争をきっかけに、それぞれの人のルーツが、複雑な形で顔を出し始めたと言えましょう。しかし、すべてこうしたことがプラスの意味で、赦しこそ、ほかでもないわたしたちカトリック信者が平和に貢献できるのだということを発見、あるいは再発見することになりました。
紛争が起きた当初は、だれもがただ茫然とするばかりで、現実を受け止めることができませんでした。やがてそれが憤りとなり、カトリック信者の共同体とは無縁であるはずの憎みあいにまで変化しました。わたしが会ったウクライナの、何人かのカトリック信者は、これは最悪の事態ではないし、いずれにしても起こるべくして起きた事態である、と考えていました。同じように、この事態を受け入れられず、甘受できないカトリックのロシア人たちにも会いました。時にはそれが憎しみや悪意を生み、相手を見下し、家族や職場の誰であろうと、簡単に敵意を抱き、挙句の果てに自己嫌悪にまで発展していきました。そうした中で、非常に多くの人びとが、特に四旬節の時期や、待降節の後でゆるしの秘跡にあずかるようになりました。10年以上、告解を行ってこなかった人が告解を行ったという感動的な話や、心の内の憎しみを克服できず、そのおかげで秘跡にあずかる力がわいたという話も知っています。
すべての紛争について言えることですが、紛争を終わらせるためには衝突の現場をはるか高く超えるイニシアチブが必要です。言い換えれば、謙虚な心と、互いに赦しあう気持ちと、前提条件なしに話し合いのテーブルにつくのなら失うものは何もないという強い信念が必要です。
(バチカンニュース・ロシア語版より)
―特殊作戦(ロシア政府はウクライナ侵攻を戦争と呼ぶことを禁じている-訳註)の影響で、ロシアの参加者に対してヨーロッパの参加者から民族的、あるいは政治的な動機による拒否反応はありましたか? また、特殊作戦やロシア政府の行動に対して懺悔を促されませんでしたか?
それについては、わたしはロシアのパスポートを持っていないので判断しかねます(リプケ師の国籍はスイス-訳註)。しかし、わたしには緊張感は感じられませんでした。とてもよい交流ができたと思います。共通のテーブルについたときもそうでしたが、いろいろな人びとと交流できました。
大きな会議では多少は”匿名”になりましたが、これは不信感からではなく、大会の形式上からのことです。しかし、小さいグループでは相互理解が大きく育ったように感じました。これはロシアや近隣諸国、またヨーロッパの東と西の国々の相互関係についても言えることです。話し合いや交流は成功だったと思いますし、友好的な雰囲気だったと言えます。
―西ヨーロッパやバルト諸国のカトリック信者に、ロシアのカトリック教会がロシア政府やロシア正教教会の道具や伝達手段となっていないだろうか、また、ソ連時代にあったような外圧を受けていないだろうかという危惧はありましたか?
それについては話題になりませんでした。もちろん、わたしの見落としかもしれませんが……。意見の相違はありましたが、それらはご質問とはまったく関係ないものでした。それぞれの国の状況の違いから生まれる意見の相違や異なる見解は、カトリック信者の間にもいっぱいありました。しかし、カトリック信者はカトリック信者であるという、確固とした実感がありました。カトリック信者はローマの教会につながっているということが、カトリック信者を互いに結びつけているのです。
―同じ信仰をもつウクライナやヨーロッパの人びととの衝突は避けられましたか? また、平和が必要であること、国と国の間に平和を確立するためには何をすべきかという相互理解が得られましたか?
ロシアのカトリック信者はわずかです。しかし、できること、すべきことはあります。いちばん価値のあることは、一方ともう一方をつなぐ交流の橋をかけることです。つまり、理解です、交流可能な人びとの存在を理解することです。この大会では、そうした理解がありました。
(RIA ノーボスチより。厳しい情報統制下にあるロシアで、ロシア国内の通信社発行のRIAノーボスチの、この記事がロシアの多くの人びとの目に触れることに、訳者として希望を感じます)
訳と構成 大井靖子
出典