片岡沙織
私は東京都のカトリックミッションスクールで、「キリスト教倫理」という科目を担当しています。各クラス15人程度と少人数であることから、生徒と教員との間で、または生徒同士の対話型の授業を主に行っています。
授業の中で「復活」について扱う場合、聖書の復活の場面の説明から入るのが、私のスタイルです。説明をする時には、電子黒板に西洋絵画を映し出します。私は生徒たちから「あまり怒らない教員」と認識されており、また宗教という教科の中の「キリスト教倫理」という科目名の授業はリラックスタイムととらえている子が多く、生徒たちは授業中に割と自由な発言をします。(もちろん、クラスが崩壊しないよう細心の注意を払います。)ですから、絵画を見た生徒たちは、この女の人はどうこう、白い服の人はどうこう、と口々に面白おかしく評価しだします。
そうこうしているうちに、生徒たちの発言の中に、待ってました!とばかりの私が説明したかったポイントを突いてくる子が出てくるわけです。これを逃さずに「なんでだと思う?」と全体に問いかけます。すると、授業が本題に入っていく、という具合です。ここまでが導入。一つの授業が50分ですので、導入は5~10分くらいでしょうか。
続いて、「エマオの道行き」「トマスの疑い」「ペトロの召命」といった箇所を使って、弟子たちの復活の体験を紹介します。ここで重要なのは、この前段階の授業で、弟子たちの心情を扱っている必要があるということです。大切な人を裏切ってしまった、大事な人を一人で死なせてしまった、知らないと言ってしまった、逃げてしまった、それぞれの弟子たちの心情を押さえておくことです。
本校はiPadの『ロイロノート』というアプリを使って授業を行っており、全員の意見を電子黒板に一同に映し出すことが出来ます。自分が弟子であったならどう思ったか、と想像し感じた気持ちを振り返ります。クラスの笑いを取るのに必死な意見をいじりつつ、きらりと光る回答をした子の意見をピックアップし、共有します。
その上で、人生の意味を見失った弟子たちが、復活のイエスに出会えた時の気持ちをグループや隣同士などで話し合い、まとまった内容をiPadで提出させ、発表してもらいます。その後、教員の体験を語るときもありますし、絵本を読んだり、復活の体験にふさわしい新聞記事を読んだりすることもあります。ここではいつも使っている私の体験談を紹介します。
私は茨城県のどのつく田舎で育ったので、家の周りは見渡す限り田畑と森。朽ちた神社が家の隣に建っていました。森の中や神社で遊んでいると、自分の存在が消えてしまうのではないかという畏怖を感じることもありました。今思えば、死への恐怖だったのかもしれません。影のように恐怖が自分の後ろにいつもありました。「なぜ生きるのか」という疑問をもって、大人になりました。そんな際、『イエス』に出会いました。ずっと影のようにいつも一緒にいた恐怖感は消え、現在は心に希望がいつもあります。
私の家族には、皆から愛されるおばあちゃんがいました。彼女の作るごはんは、何を食べても最高。煮物はちょうどよく味が染みていて、揚げ物はカラリと揚がって衣はサクサクの歯ざわりとふっくらあつあつの具、おつゆはしっかり出汁がとってあって体の芯まであたたまる。お掃除は隅々まで行き届いており清潔で、また良い素材を選別する目利きで、ブランドに頼らなくても、いつも上品。顔を見せればいつもお小遣いをくれて、孫の私をとてもかわいがってくれて。縁側にはいつも代わるがわるお客さんが来ていて、お茶やお菓子を出して、相手の話をじっくり聞いていました。
彼女は88歳で帰天しました。残された家族や彼女を慕っていた親戚、ご近所さん、お友達、町の多くの人たちが、どんなに悲しみに打ちひしがれたかは言うまでもありません。私の母は「お化けでもいいから、もう一度会いたいよ」としばらく嘆き、私の姉弟や従妹たちは「ばぁやの卵とたまねぎのお吸い物がまた食べたい」と泣きました。いつも縁側に来ていたご近所さんは「今後どこでお話をしたらいいのか」と戸惑い、一番仲良しのお友達は「先にいかれてしまったよ」と悲しんでいました。
彼女の残したいろいろな物を整理していくうちに、彼女が毎日欠かさずにつけていた日記を読ませてもらう機会がありました。その中には、日々の暮らしのメモや、印象的だった出来事、その時に感じたことなど、祖母の言葉が詰まっていました。その中には、祖母が心の中で私に宛てた言葉も書かれていました。「沙織の率直な性格が大好き。どうかそのままで」。その言葉は、その後の私をいつも励ましてくれています。悲しい時も悩んでいる時も、その言葉は私が再び立ち直るエネルギーをくれています。彼女はキリスト教徒ではありませんでしたが、神さまのみ旨にかなった人だったと思います。これは私の復活の体験です。
体験談は5~10分くらいでしょうか。教員の私的な話は、生徒たちは割と熱心に聞いてくれます。このような話をしてから、人生には理不尽な出来事がたくさんある。それでも人生には希望がある。復活のイエスに出会って心を新たに生きていった弟子たちのように、私たちは絶望の淵にあっても、人生の再出発が可能なのだと伝えます。
さらに時間に余裕があれば、ヴィクトール・E・フランクルの『どんな時にも人生には意味がある。未来で待っている人や何かがあり、そのために今すべきことが必ずある』という言葉を伝えます。ヴィクトール・E・フランクルについての詳細はまた今度どこかでやりましょう、そう約束しつつ、彼について少し説明しているとチャイムが聞こえてくる、といった感じです。
子どもたちはさまざまな環境の中で、皆一人残らず必死に生きていると感じます。今現在、とてつもない苦難の渦中でもがいている生徒も少なくありません。そして今後も困難に直面することがきっとあるでしょう。そのような時に、それでも希望がある、人生に意味がある、そう思ってもらえるように、今後も「イエスの復活」を告げ知らせていきたいと思います。