『王の没落』


『王の没落
イェンセン:著、長島要一訳、岩波文庫、2021年
定価:1,122円   412ページ

 

石川雄一(教会史家)

英文学といったらシェイクスピアやディケンズ、ドイツ文学といったらゲーテやトマス・マン、フランス文学といったらモーパッサンやバルザック‥‥といったように、西欧の文学は各国ごとに代表的な文豪を列挙することができます。それではデンマークはどうでしょうか?「うーん、「人魚姫」などの童話で知られるアンデルセンは知っているけど、他には……」という方は少なくないのではないでしょうか。

そこで今回は、アンデルセンが没する年前の1873年に生まれたデンマーク人のノーベル文学賞作家イェンセン(Johannes Vilhelm Jensen/1873〜1950)の代表作『王の没落』を紹介します。「二十世紀最高のデンマーク小説」を決めるアンケートで一位を受賞した『王の没落』は、動乱の16世紀を舞台とした歴史小説であり、19世紀の最後の年である1900年から20世紀最初の年である1901年にかけて書かれた、デンマーク人の歴史と精神性の一端を示す名作であるといえます。

ところで、物語の舞台となる16世紀デンマークの歴史は、日本ではほとんど知られていないのではないでしょうか。岩波文庫の翻訳の冒頭にも訳者による簡単な時代背景の解説が書かれていますが、ここでも教会史の観点から16世紀初頭の北欧史を簡単に述べたいと思います。16世紀というと日本でも戦国時代であり、中世と近世の分水嶺となるような時期ですが、西欧でも宗教改革が勃発することで古い秩序が崩壊していく激動の時代でした。

中世後期の北欧はカルマル同盟という同君連合を結成していました。つまり、デンマークの王様がスウェーデンとノルウェーの王様を兼ねることで、北欧全土を支配していたのです。ですが、1500年にヘミングシュテットの戦いでデンマーク軍が小国相手に大敗すると、スウェーデンで独立の機運が高まります。1503年、独立派の大ステン・ストゥーレ(Sten Sture den äldre/1440〜1503)は、スウェーデンをカルマル同盟から事実上独立させることに成功します。

このようにスウェーデンが独立してカルマル同盟が崩壊しつつある1513年にデンマーク王となったのが、『王の没落』で重要な役を演じることとなるクリスチャン2(Christian II/1481〜1559)です。なお、1517年にはルターが「95ヶ条」を提出して、宗教改革が始まります。

デンマーク王となったクリスチャン2世は、カルマル同盟の再編による北欧帝国の樹立を目論んだ野心家でした。1518年、スウェーデンでウプサラ大司教グスタフ・トロレ(Gustav Trolle/1488〜1535)がカルマル同盟への参加を求め、実権を握る独立派の小ステン・ストゥーレ(Sten Sture den yngre/1493〜1520)に反旗を翻しました。内乱状態に陥ったスウェーデンに侵攻したクリスチャン2世は、小ステン・ストゥーレ率いる独立派を倒し、スウェーデン王として即位することでカルマル同盟を再興します。そして152011月、北欧の支配者となったクリスチャン世は、スウェーデンの独立派をストックホルムの広場で一斉に処刑します。「ストックホルムの血浴」(Stockholms blodbad)と呼ばれるこの虐殺によりスウェーデン独立運動を鎮静化させようとしたクリスチャン世の思惑とは裏腹に、王への批判は強まっていきました。

「ストックホルムの血浴」を逃れたスウェーデン貴族のグスタフ・ヴァーサ(Gustav Vasa/1496〜1560)は、反乱軍を率いて、故国を再び独立させようとします。さらにデンマークでも、人気を失ったクリスチャン世を廃位して彼の叔父フレデリック(Frederik I/1471〜1533)を擁立しようとする動きがおこります。「没落」した王クリスチャン世は、スウェーデンの独立派とデンマークのフレデリック派を鎮圧することができず、王位を追われることとなりました。

こうしてスウェーデンの王となったグスタフ1世は、近世北・東欧で絶大な存在感を示すヴァーサ朝を開きました。そして同盟派の大司教グスタフ・トロレの地位を認めずに、ルター派のペトリ兄弟を登用しました。兄のオラウス((Olaus Petri/1493-〜1552)は聖書のスウェーデン語訳や典礼改革を通じてスウェーデンの宗教改革に貢献し、弟のラウレンティウス(Laurentius Petri/1499〜1573)はウプサラ大主教となることでスウェーデン国教会の礎が築かれました。つまりグスタフ世は、同盟派の大司教グスタフ・トロレを退けるという政治的な理由からプロテスタントを受容し、ローマ・カトリック教会から離別したのでした。

一方、甥のクリスチャン2世を廃位してデンマーク王となったフレデリック世は、甥がカトリック勢力に支持されていたこともあり、プロテスタントに好意的な姿勢を示しました。1533年にフレデリック1世が没すると、プロテスタントの息子クリスチャン世がデンマーク王となり、デンマークでも宗教改革が進展することとなります。

こうした北欧の政治史・宗教史的にも重大な時代を舞台に、ミッケル・チョイアセンという架空の人物の生涯を描いた歴史小説が『王の没落』です。日本の読者には馴染みのないデンマーク人の名前や上記の歴史背景によりとっつきにくい小説かもしれませんが、16世紀の登場人物に仮託された19世紀末の近代精神が文豪の筆により鋭く描かれている名作であることは疑う余地がありません。デンマークのコペンハーゲン大学で教鞭をとってきた訳者の翻訳により、原書の出版から100年以上の時を経て出版された待望の日本語版を読んでみてはいかがでしょうか。

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