キリスト教とお酒は切っても切り離せない関係にあります。ヨハネ福音書によればイエスが最初になされた奇跡はカナの婚宴で水をぶどう酒に変える出来事(ヨハ2・1〜11)であり、「最後の晩餐」では「新しい契約の血」である杯が回し飲み(マタ26・27-28 ; マコ14・23〜24 ; ルカ22・17)されました。また、イエスのことを「大食漢で大酒飲みだ」(マタ11・19)と非難する声もあったようです。もちろん、「酒に溺れる者」が「神の国を受け継ぐことはありません」(一コリ6・10)というパウロの言葉を引用するまでもなく、教会は多量飲酒を勧めているわけではありません。それでも、キリスト教の発展にお酒は欠かせませんでしたし、キリスト教がお酒の発達に寄与したという歴史も無視できません。
そこで新コーナー「酒は皆さんとともに!」はキリスト教と関係のあるお酒を毎月紹介することとなりました。以前、AMORでは「お酒とともに揺らめくもの」と題した特集が組まれました。エッセイやお酒論が中心であった特集とは異なり、「酒は皆さんとともに!」は具体的なお酒の銘柄や歴史を扱っていきます。本記事を通して紹介されたお酒に興味を持たれましたら、ぜひ「酒に溺れる者」にならない程度の節度を持ってお楽しみいただければ幸いです。
初回に紹介するのは「ポム・ド・イヴ」(Pomme d'Eve)というリンゴのお酒(カルヴァドス)です。ボトルの中にリンゴが入っている印象的な見た目の「ポム・ド・イヴ」というお酒の名前を直訳すると、「エヴァのリンゴ」となります。
創世記によると神は最初の人間としてアダムとエヴァを創られました。「エデンの園」で幸せに暮らしていたアダムとエヴァは「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」(創世2・16〜17)と命じられていました。ですが、蛇にそそのかされたエヴァは、神の命に背いて「知恵の木」から実を取って食べてしまいます。エヴァと同様にアダムも「知恵の木」の実を食べてしまい、二人は「エデンの園」から追放されてしまいます。これが有名な「失楽園」であり、「ポム・ド・イヴ」の由来となった物語です。
ところで、なぜリンゴなのでしょうか。聖書には「知恵の木」の実とあるだけで、リンゴとは書いてありません。「知恵の木」の実がリンゴと解釈されるようになった背景には、翻訳の問題があるのではないかと指摘されています。旧約聖書はヘブライ語で著されましたが、それが世界へ広がっていくために当時の公用語であったギリシア語やラテン語に翻訳されていく必要がありました。ギリシア語で果物を指す「メーロン」(μῆλον/メロンの語源でもある)はリンゴという意味もあり、同じようにラテン語でも果物を意味する「マールム」(malum)という単語はリンゴと同じ単語でした。さらに、ややこしいことに果物とリンゴを意味する「マールム」という名詞は、「悪い」や「邪悪な」といった意味の形容詞「マルム」とそっくりです。「知恵の木」の実は、セプトゥアギンタと呼ばれる権威あるギリシア語訳では「カルポス」(καρπός)という語が、カトリック教会公式のラテン語聖書であるヴルガタ訳では「フルクトゥス」(fructus/フルーツの語源)という語が用いられていて、「メーロン」や「マールム」という語は出てきません。それでも「失楽園」につながる悪い(マルムな)実である「知恵の木」の実が人々の間で「マールム」と呼ばれ、リンゴのイメージが定着した可能性は十分にありえるのではないでしょうか。
いずれにせよ、人間を「失楽園」にいざなった「エヴァのリンゴ」を意味する「ポム・ド・イヴ」という名前には、何とも誘惑的な響きがあります。アルコール度数40%の「ポム・ド・イヴ」をブランデーグラスに注ぐと、リンゴの青々とした香りが広がります。口に含むと、フレッシュな香りの奥深くに隠れていた、熟した大人の味わいが顔を見せ始めます。気が付くとついつい飲みすぎてしまうほどの滑らかさもある「ポム・ド・イヴ」という魔性のお酒、虜にならないように気をつけながら飲んでみてはいかがでしょうか。
石川雄一(キリスト教史家)