キリスト教において死者の月とされる11月。その理由も興味があるところですが、それ以上に、キリスト教において、葬儀とか、死者を祀る、ということについてどんな慣習や儀礼があるのか、率直に知りたくなりました。教会生活に日頃から参加している人にとっては、当たり前のことかもしれませんが、信者ではない人にとっても、また、今は信者でもかつて信者ではなかった時には、同じように、教会と葬儀、そして、故人へ追悼や崇敬といった慣習との関係については、あまり、よくわからなかった、いや今もよくわからないということも多いのではないでしょうか。
こうしたテーマについて、AMORなりに調べてみたことを、対話形式で幾つかまとめてみました。
「葬式仏教」ということばがあって、仏教は葬式のためだのもの、といったイメージを表しますね。ほんとうは、仏教のブッダの教え、宗派の祖の教えを学び、日常に生かしていくというのが、本来のはずで、「葬式」や「法事」のときだけが役割だ、というわけではないですよね。
普段は、あんまり教会とかかわっていないのに、葬式のときだけ、教会と接するという人が一定数いますので、その状態をみてやはり「キリスト教も葬式宗教?」という一種の嘆きのことばが発されるときもあるそうです。
日本のカトリック教会には、『葬儀』という儀式書(カトリック中央協議会 1993年)があります。日本語で日本語の慣習も取り込んだ構成になっていますので、項目的に概観するだけでも、きっとピンと来ると思いますよ。6つの項目が掲載されています:
- 臨終から仮通夜まで〔1 臨終/2 死の直後/3 弔問のときの祈り/4 納棺/5 仮通夜〕
- 通夜〔1 教会、あるいは自宅で行う通夜〕
- 葬儀〔1 葬儀ミサ/2 ことばの祭儀による葬儀〕
- 埋葬〔1 火葬のときの祈り/2 火葬後の祈り/3 自宅での祈り/4 土葬/5 埋葬(納骨)の祈り〕
- 命日祭〔祈念の集い〕
- 墓参の祈り
「命日祭」という表現はたしかに珍しいですね。教会でも「命日の追悼」といった言い方も慣習的にしている場合もあります。ただ、「命日」はむしろ日本の慣習から取り込んだものなんですよ。
それを死者の命日(殉教の場合は殉教日)のことを「誕生日」(ナタリーチア)、つまり新しいいのちに生まれる日と考えていた古代のローマ教会の伝統と結びつけて、積極的に「命日」ということにしたというのですよ(儀式書『葬儀』23ページ参照)。
カトリックでは、どの典礼もそうですが、ローマ(教皇庁典礼秘跡省)から出される儀式書のラテン語規範版に基づきつつ、それを日本語にし、さらに、日本の慣習も考慮する、という、二つの側面のことが重要だ、ということがひしひしと伝わってくるのです。
現代の儀式書は1962~65年の第2バチカン公会議後にローマ典礼の伝統を再編成したラテン語規範版と呼ばれる儀式書が公布されて、それを受けて日本のカトリック教会で1971年に日本語版が出され、さらにそれを改めて1993年に現在の儀式書『葬儀』が発行されています。もう30年になるので、その後の社会変化も加味して見直さなくてはならない面も出てきているようです。
日本聖公会のすべての礼拝の儀式書である『祈祷書』(1991年)に、「葬送の式」(葬送式/幼年葬送式/通夜の祈り/逝去者祈念の式)という章があります。
日本ルーテル福音教会・日本ルーテル教団の『ルーテル教会 式文(礼拝と諸式)』(2001年)では、「葬儀についての注意/臨終の祈り/納棺の祈り/通夜記念式/葬式/出棺に際して/火葬に際して/火葬後の祈り/納骨の祈り/周年記念会の祈り」という項目があります。
日本基督教団信仰職制委員会編『新しい式文 試案と解説』(1990年)では、「葬儀について」という章で「枕頭の祈り/納棺の祈り/前夜の祈り(通夜の祈り、棺前祈祷会)/出棺の祈り/葬送式/火葬前の祈り/埋葬の祈り(墓所の前で)/記念会(記念礼拝)」が記されています。
全体として、キリスト教の葬儀としての共通の特色は見てとれるのではないでしょうか。カトリックでいう「命日祭」にあたるところの言い方がそれぞれ多様なのは興味深いですね。
「葬儀とは通夜から埋葬までの一連の儀式をいう。通夜は本来、遺族と親族が故人をしのび、最後の夜を故人の自宅でともに過ごす私的な集いであり、葬送と埋葬は地域社会の手によって行われる公的性格の強いものであった。しかし、社会状況の変化により、現代では通夜に参加することによって社会的責務を果たす人が年々増えている。そこで通夜の祈りも本来の目的(故人をしのび、遺族を慰める)に加え、キリスト教の葬儀の特質(を)表現するようにした」
とあります(19ページ)。
本来私的な集いだったものが、むしろ夜に参列しやすい一種の第一葬儀のように公的になってきたところが踏まえられている、ということですね。それで、「教会で行う通夜」と「自宅で行う通夜」の二つが用意されているということです。ところが、最近は、通夜そのものが教会でも公的な形で行われることがなくなっているという事情もありますね。
「教会は葬儀において、何よりも復活信仰を表明し、キリストによって死者を神のみ手にゆだねる。死からいのちへと過ぎ越されたキリストによってあがなわれたことを信じる教会は、葬儀において神の偉大なわざを記念し、感謝をささげる。/それは、死んで復活されたキリストに洗礼によって結ばれた信者が、キリストとともに死を通って生命に移るよう、すなわち故人が清められて、聖なる選ばれた者とともに受け入れられ、キリストの再臨と死者の復活を待ち望むように祈るためである。/したがって教会は、死者のためにキリストの過越のいけにえをささげ、彼らのために祈り、懇願する。こうして、互いにキリストのからだの部分として交わっている者は救いのわざにあずかり、遺族、参列者は希望と慰めを受ける」
と。
「教会の葬儀は、死者のために祈ることのみを目的としているのではない。生者のために祈る場でもある。神ご自身が、悲しみのうちにある遺族の力、励ましとなってくださるように祈ると同時に、洗礼によってキリストの死に結ばれた者が、その復活にも結ばれることができる、という復活への信仰を新たにし、宣言する場でもある。」
なんども出てきている「キリスト」が中心に考えられていることは、わかるでしょう。キリスト教なのだから当然だといわれたらおしまいですれども、ここにキリスト教の核心的なことが述べられています。「キリストの死からいのちへの過ぎ越し」「死んで復活されたキリスト」「キリストの過越」といったことばがその鍵となるものです。
キリスト教は、キリストが十字架で死んで復活し、人類を罪と死から解放し、神のいのちへと自ら歩み、そしてすべての人をそこに招き導いている……ということを信仰の根本としているということです。そして、このことは、キリスト教生活すべてにとって根本的なことです。いわば、そのことを信者である死者においてはっきりと表される儀式が教会の葬儀だということになります。とくに、「死者のためにキリストの過越のいけにえをささげ」とあるのは、わかりにくい言い方ですが、つまりはミサのことを指しています。
実は、ミサの祈りには、いつも死者の追憶(メメント)という部分が含まれています。教会全体にとって大切な故人、マリア、ヨセフをはじめ殉教者、聖人をはじめ、各共同体の人々など、自由にその中で思い起こして祈るという形になっています。キリストの死をはじめ、「死」ということばがいつも出てくるというのがキリスト教の典礼の特色です。日曜日のミサだけでなく、毎日ささげられるミサでも、また、晩の祈りという毎晩捧げる祈りには必ず死者のことを思う祈りが入るなど、教会は、いつも、絶えず、生きているわたしたち、人々のことと一緒に死者のことを祈っています。
たとえば、儀式書の祈願の例の一つとなっている次の祈りを聞いてみてください。
「わたしたちの希望の父よ、あなたは信頼する者をいつも助けてくださいます。あなたが愛された者の死を顧み、その生涯をささげものとして受け入れてください。御子キリストのうちにあって復活の栄光にあずからせてくださいますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。」
そして、教会固有の典礼を行うときでも、いつもそのような方がいることを前提として、進行案内がなされます。教会で多く行われる葬儀が信者でない方がもっとも多く参加する機会である、ということから、教会では、宣教の重要な現場であると考えている場合もあります。
また、お寺でのことと思われているかもしれませんが、焼香という慣習も、儀式書の中には取り入れられています。そこも一般には献花(棺へのお花入れ)という形でなされることが多いようです。
ただ、教会では、日本語で「永遠の安息を祈ります」という言い方があり、故人が神のみもとに迎えられ、永遠にやすらうように、という信仰が素直に表現されるので、このような言い方が教会では一般的です。西洋の慣習で、新聞の死没告知や墓碑に、R.I.P.と記されますが、これは、レクイエスカト・イン・パーチェ(Requiescat in pace)つまり「その方が平和に憩いますように」という句の略記です。
レクイエムもそうですが 「安息」「安らぎ」を願うという感覚が、キリスト教的な伝統にあるので、その意味で、「永遠の安息を祈ります」は、ふさわしい言い方にもあると思います。「冥福を祈ります」という言い方を聞いても、同じ意味で、キリスト者は受け取りますよ。
もちろん、1980年代からもう40年近くたっていて、日本社会一般の葬送事情、伝統的慣習からの距離感、家族事情など、さまざまな変化があります。それらに最前線で触れるのも教会における死者を巡る現場です。そうところでもあるということにも心に留めて、教会の葬儀に出られる機会があれば、そこでの祈りのこころに注目してほしいなと思います。
キリスト教の歴史の中でのさまざまな葬儀慣習や、土葬とか火葬とか、そういったことについては、また、機会があったら調べてお伝えしたいと思います。皆さんも何か疑問に思ったことがあれば、調べてみますので、気軽にお知らせください!
(調査・まとめ 石井祥裕/イラスト・脚色 高原夏希)