キリスト教の葬儀に心を向けてみよう(AMOR流リサーチ)


キリスト教において死者の月とされる11月。その理由も興味があるところですが、それ以上に、キリスト教において、葬儀とか、死者を祀る、ということについてどんな慣習や儀礼があるのか、率直に知りたくなりました。教会生活に日頃から参加している人にとっては、当たり前のことかもしれませんが、信者ではない人にとっても、また、今は信者でもかつて信者ではなかった時には、同じように、教会と葬儀、そして、故人へ追悼や崇敬といった慣習との関係については、あまり、よくわからなかった、いや今もよくわからないということも多いのではないでしょうか。

こうしたテーマについて、AMORなりに調べてみたことを、対話形式で幾つかまとめてみました。

 

キリスト教にも葬儀はある?
そぼ
お葬式というと、お寺さん、つまり仏教をすぐ連想するね。キリスト教の場合、教会の宗教活動は、聖書に基づく説教やカトリック教会の場合はミサが中心の宗教だと思ってて、つまり日曜日に教会に通って礼拝をささげる宗教だよね。そのような、キリスト教にも、葬儀というのはあるの?
りさ
はい、もちろんあります。キリスト者が亡くなったときには、キリスト教式の葬儀というものがあり、それが営まれます。カトリック教会では、日曜日や平日のミサのほかに、もっとも多く行われている儀式といってもよいほどです。時期により、亡くなる方が多いときなどは、「ああ、キリスト教も葬式宗教なのか」と感じられるときがあります。

「葬式仏教」ということばがあって、仏教は葬式のためだのもの、といったイメージを表しますね。ほんとうは、仏教のブッダの教え、宗派の祖の教えを学び、日常に生かしていくというのが、本来のはずで、「葬式」や「法事」のときだけが役割だ、というわけではないですよね。

普段は、あんまり教会とかかわっていないのに、葬式のときだけ、教会と接するという人が一定数いますので、その状態をみてやはり「キリスト教も葬式宗教?」という一種の嘆きのことばが発されるときもあるそうです。

そぼ
具体的にどんなかたちで、葬儀が営まれるの?
りさ
それについては、カトリック教会の例で紹介しましょう。

日本のカトリック教会には、『葬儀』という儀式書(カトリック中央協議会 1993年)があります。日本語で日本語の慣習も取り込んだ構成になっていますので、項目的に概観するだけでも、きっとピンと来ると思いますよ。6つの項目が掲載されています:

  • 臨終から仮通夜まで〔1 臨終/2 死の直後/3 弔問のときの祈り/4 納棺/5 仮通夜〕
  • 通夜〔1 教会、あるいは自宅で行う通夜〕
  • 葬儀〔1 葬儀ミサ/2 ことばの祭儀による葬儀〕
  • 埋葬〔1 火葬のときの祈り/2  火葬後の祈り/3 自宅での祈り/4 土葬/5 埋葬(納骨)の祈り〕
  • 命日祭〔祈念の集い〕
  • 墓参の祈り
そぼ
ほんとうに日本の葬儀慣習からもわかることばばかりだね。ただ「埋葬」というのが気になるかな。これは土葬を前提とした言い方だよね。また「命日祭」というのも聞き慣れない。
りさ
もちろん、火葬も今は普通ですし、そのような場合は、「納骨」になるという補足書きがあります。

「命日祭」という表現はたしかに珍しいですね。教会でも「命日の追悼」といった言い方も慣習的にしている場合もあります。ただ、「命日」はむしろ日本の慣習から取り込んだものなんですよ。

それを死者の命日(殉教の場合は殉教日)のことを「誕生日」(ナタリーチア)、つまり新しいいのちに生まれる日と考えていた古代のローマ教会の伝統と結びつけて、積極的に「命日」ということにしたというのですよ(儀式書『葬儀』23ページ参照)。

そぼ
へー。
りさ
ほかにも、いろいろ、気になるところがあるでしょうね。『葬儀』の儀式書の冒頭に「緒言」という文章があって、それぞれ親切に説明されていて結構面白いです。一つには、カトリック教会の場合、ローマ典礼の伝統と日本の伝統の両方の間を取り持つような仕事がここにあるということです。

カトリックでは、どの典礼もそうですが、ローマ(教皇庁典礼秘跡省)から出される儀式書のラテン語規範版に基づきつつ、それを日本語にし、さらに、日本の慣習も考慮する、という、二つの側面のことが重要だ、ということがひしひしと伝わってくるのです。

現代の儀式書は1962~65年の第2バチカン公会議後にローマ典礼の伝統を再編成したラテン語規範版と呼ばれる儀式書が公布されて、それを受けて日本のカトリック教会で1971年に日本語版が出され、さらにそれを改めて1993年に現在の儀式書『葬儀』が発行されています。もう30年になるので、その後の社会変化も加味して見直さなくてはならない面も出てきているようです。

そぼ
仏教の臨終から葬儀・告別式に至る段階で、「枕経」とか、とても細かくいろいろなところでお経という礼拝行為があるのだなと、家族の葬儀で知ったところですが、臨終から納骨までのプロセスはわりとシンプルに感じたな。他のキリスト教の教派ではどうなの?
りさ
簡単に概観しましょう。手元にある文献から:

日本聖公会のすべての礼拝の儀式書である『祈祷書』(1991年)に、「葬送の式」(葬送式/幼年葬送式/通夜の祈り/逝去者祈念の式)という章があります。

日本ルーテル福音教会・日本ルーテル教団の『ルーテル教会 式文(礼拝と諸式)』(2001年)では、「葬儀についての注意/臨終の祈り/納棺の祈り/通夜記念式/葬式/出棺に際して/火葬に際して/火葬後の祈り/納骨の祈り/周年記念会の祈り」という項目があります。

日本基督教団信仰職制委員会編『新しい式文 試案と解説』(1990年)では、「葬儀について」という章で「枕頭の祈り/納棺の祈り/前夜の祈り(通夜の祈り、棺前祈祷会)/出棺の祈り/葬送式/火葬前の祈り/埋葬の祈り(墓所の前で)/記念会(記念礼拝)」が記されています。

全体として、キリスト教の葬儀としての共通の特色は見てとれるのではないでしょうか。カトリックでいう「命日祭」にあたるところの言い方がそれぞれ多様なのは興味深いですね。

そぼ
「通夜」という日本らしい慣習と用語が教会でも使われているのは面白いね。「通夜」というものの教会的位置づけはどうなってるの?
りさ
カトリックの『葬儀』の儀式書の緒言でよく説明がされています。

「葬儀とは通夜から埋葬までの一連の儀式をいう。通夜は本来、遺族と親族が故人をしのび、最後の夜を故人の自宅でともに過ごす私的な集いであり、葬送と埋葬は地域社会の手によって行われる公的性格の強いものであった。しかし、社会状況の変化により、現代では通夜に参加することによって社会的責務を果たす人が年々増えている。そこで通夜の祈りも本来の目的(故人をしのび、遺族を慰める)に加え、キリスト教の葬儀の特質(を)表現するようにした」

とあります(19ページ)。

本来私的な集いだったものが、むしろ夜に参列しやすい一種の第一葬儀のように公的になってきたところが踏まえられている、ということですね。それで、「教会で行う通夜」と「自宅で行う通夜」の二つが用意されているということです。ところが、最近は、通夜そのものが教会でも公的な形で行われることがなくなっているという事情もありますね。

そぼ
人を呼ばずに家族・親族だけで済ますようになってきた、というのが日本でも最近の事情でもあるよね。もっとも、社会的に大きな影響力のあった人の場合は通夜も葬儀告別式も盛大に公的に行われるけど、その場合も葬儀は家族のみで済ませて、公的な「お別れの会」は別にという体裁も多いね。
りさ
葬儀は家族のみで、ということについては、『葬儀』の儀式書でも、葬儀の規模の種類のところで、「内輪で近親者のみの密葬」ということばが使われています(12ページ)。ただ、実際には、「密葬」というよりも「家族葬」ということばのほうを多く聞きますし、その形態のほうが多くなっているような気がします。

 

2.葬儀のキリスト教的意味とは?
そぼ
キリスト教にも葬儀があることはわかったけど、ずばりその特徴って?
りさ
大事なことをずばり聞きますね。では、お寺さんでする葬儀の特色は何か知っていますか。たぶんあまり知られていないのではないですか。家族が亡くなったときに慣習的にすることとして、戒名とか位牌の意味もあまり考えたことはないのではないでしょうか。
そぼ
えー、そう聞かれると、よくわかんないな。
りさ
それは、ともかく、葬儀ということに関して、つまりキリスト者である人が亡くなったときに行われる葬儀(通夜から納骨まで)を通して示される「キリスト教らしさ」については、カトリックの儀式書の緒言1(9ページ)が端的に述べています。

「教会は葬儀において、何よりも復活信仰を表明し、キリストによって死者を神のみ手にゆだねる。死からいのちへと過ぎ越されたキリストによってあがなわれたことを信じる教会は、葬儀において神の偉大なわざを記念し、感謝をささげる。/それは、死んで復活されたキリストに洗礼によって結ばれた信者が、キリストとともに死を通って生命に移るよう、すなわち故人が清められて、聖なる選ばれた者とともに受け入れられ、キリストの再臨と死者の復活を待ち望むように祈るためである。/したがって教会は、死者のためにキリストの過越のいけにえをささげ、彼らのために祈り、懇願する。こうして、互いにキリストのからだの部分として交わっている者は救いのわざにあずかり、遺族、参列者は希望と慰めを受ける」

と。

そぼ
なんだか、お経を聞いているような気がしてきたんだけど……。
りさ
それは、ローマから出されたラテン語規範版に基づく、やや翻訳調の文体だからかもしれません。でも、お経に比べて、よく読めば日本語ですし、なにかは理解できるでしょう。続きを聞いてください。

「教会の葬儀は、死者のために祈ることのみを目的としているのではない。生者のために祈る場でもある。神ご自身が、悲しみのうちにある遺族の力、励ましとなってくださるように祈ると同時に、洗礼によってキリストの死に結ばれた者が、その復活にも結ばれることができる、という復活への信仰を新たにし、宣言する場でもある。」

なんども出てきている「キリスト」が中心に考えられていることは、わかるでしょう。キリスト教なのだから当然だといわれたらおしまいですれども、ここにキリスト教の核心的なことが述べられています。「キリストの死からいのちへの過ぎ越し」「死んで復活されたキリスト」「キリストの過越」といったことばがその鍵となるものです。

キリスト教は、キリストが十字架で死んで復活し、人類を罪と死から解放し、神のいのちへと自ら歩み、そしてすべての人をそこに招き導いている……ということを信仰の根本としているということです。そして、このことは、キリスト教生活すべてにとって根本的なことです。いわば、そのことを信者である死者においてはっきりと表される儀式が教会の葬儀だということになります。とくに、「死者のためにキリストの過越のいけにえをささげ」とあるのは、わかりにくい言い方ですが、つまりはミサのことを指しています。

そぼ
なるほどね。死者のためだけ、その家族のため、という儀式に終始せずに、教会の信仰宣言の儀式でもあるという点は、新しく教わった気がするよ。すると、葬儀は教会にとってすごく重要だってことだよね。
りさ
ここで述べられている キリストの死と復活がキリスト教の核心だということが、その理由です。それを「過越(すぎこし)の神秘」というのですが、これが洗礼に関しても、すべてのミサにおいても根源に記念され、祝われているというところが重要ですね。

実は、ミサの祈りには、いつも死者の追憶(メメント)という部分が含まれています。教会全体にとって大切な故人、マリア、ヨセフをはじめ殉教者、聖人をはじめ、各共同体の人々など、自由にその中で思い起こして祈るという形になっています。キリストの死をはじめ、「死」ということばがいつも出てくるというのがキリスト教の典礼の特色です。日曜日のミサだけでなく、毎日ささげられるミサでも、また、晩の祈りという毎晩捧げる祈りには必ず死者のことを思う祈りが入るなど、教会は、いつも、絶えず、生きているわたしたち、人々のことと一緒に死者のことを祈っています。

そぼ
そうなんだ。それは、キリスト教への見方が新たにされる感じがするね。
りさ
そのことを、一人の信者さんが亡くなった時に行うのが葬儀ですし、おのずと、キリスト教の信仰宣言ですし、また、一般の人々に「キリスト教は何か」ということを示す機会となっています。

たとえば、儀式書の祈願の例の一つとなっている次の祈りを聞いてみてください。

「わたしたちの希望の父よ、あなたは信頼する者をいつも助けてくださいます。あなたが愛された者の死を顧み、その生涯をささげものとして受け入れてください。御子キリストのうちにあって復活の栄光にあずからせてくださいますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。」

そぼ
おお、わかりやすいね。解説の説明文より、はるかに。このような祈りの雰囲気で、今、教会の葬儀があるんだね。

 

3.さまざまな伝統、慣習、持ち味の中で
そぼ
ところで、教会の葬儀には信者ではない人も行っていいの?
りさ
もちろんです。故人のための儀式ですから、故人の家族、親戚、友人などが集まるとき、むしろ信者が少ないのが通例です。ですから、故人本人の信仰に基づいて教会で葬儀をする場合でも、信者でない人がいつもいます。

そして、教会固有の典礼を行うときでも、いつもそのような方がいることを前提として、進行案内がなされます。教会で多く行われる葬儀が信者でない方がもっとも多く参加する機会である、ということから、教会では、宣教の重要な現場であると考えている場合もあります。

そぼ
一般的な「香典」とか「霊前」といったお捧げものについて、カトリックではそんな言葉を使わないとか、使っちゃいけないということはないのかな。
りさ
一般には「お花料」とすることが多いですが、その人それぞれのなじんでいる社会慣習に従って差し出すことを拒むことはありません。

また、お寺でのことと思われているかもしれませんが、焼香という慣習も、儀式書の中には取り入れられています。そこも一般には献花(棺へのお花入れ)という形でなされることが多いようです。

そぼ
命日という言葉の話がありましたが、故人のために祈る言葉で、「ご冥福を祈ります」ってあるよね。その言葉は、キリスト教では使っていけない、とも聞いた気がするんだけど。
りさ
冥は「冥土」を指すので、それは、仏教的な伝統の言葉と考えれば、キリスト教的ではないかもしれません。ただ現在では、「死後の」ということとそう変わらない意味合いで使われているとすれば、亡くなった方の死後の福(さち)を祈るという意味で、キリスト教信仰の気持ちを込めて告げることも可能です。

ただ、教会では、日本語で「永遠の安息を祈ります」という言い方があり、故人が神のみもとに迎えられ、永遠にやすらうように、という信仰が素直に表現されるので、このような言い方が教会では一般的です。西洋の慣習で、新聞の死没告知や墓碑に、R.I.P.と記されますが、これは、レクイエスカト・イン・パーチェ(Requiescat in pace)つまり「その方が平和に憩いますように」という句の略記です。

レクイエムもそうですが 「安息」「安らぎ」を願うという感覚が、キリスト教的な伝統にあるので、その意味で、「永遠の安息を祈ります」は、ふさわしい言い方にもあると思います。「冥福を祈ります」という言い方を聞いても、同じ意味で、キリスト者は受け取りますよ。

そぼ
逆にキリスト者の方が、お寺の葬儀に出る場合もあるよね。家族で信仰が違うとか。
りさ
ええ、とても多いです。でも、信仰が違うからといって、家族のことを弔いたいのに、お寺での葬儀に参列することが禁じられるということもありません。カトリック教会では、主に、キリスト者である人が諸宗教の葬儀や死者への崇敬慣習に対してどのように臨んだらよいかについての手引きも出ているくらいです。
そぼ
へー! そうなんだ。
りさ
日本カトリック司教協議会諸宗教委員会が1985年に出した『祖先と死者についてのカトリック信者の手引』(カトリック中央協議会)という冊子があります。個々の点は略しますが、日本人の葬送や死者崇敬に関する諸慣習を頭から否定したり、排除したりする姿勢ではなく、キリスト教の神観や死生観、そしてなによりも愛の精神をもって多くを受容しつつ、キリスト教的に味つけていくことを寛大に勧めているものです。

もちろん、1980年代からもう40年近くたっていて、日本社会一般の葬送事情、伝統的慣習からの距離感、家族事情など、さまざまな変化があります。それらに最前線で触れるのも教会における死者を巡る現場です。そうところでもあるということにも心に留めて、教会の葬儀に出られる機会があれば、そこでの祈りのこころに注目してほしいなと思います。

キリスト教の歴史の中でのさまざまな葬儀慣習や、土葬とか火葬とか、そういったことについては、また、機会があったら調べてお伝えしたいと思います。皆さんも何か疑問に思ったことがあれば、調べてみますので、気軽にお知らせください!

 

(調査・まとめ 石井祥裕/イラスト・脚色 高原夏希)

 


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