『桜色の風が咲く』


目が見えない、耳が聞こえないという世界はどんな世界なんだろうと、中学生の頃から身体障害者の施設へ月に1回、神学生とともに通っていた私は、ある程度年月が経ってから思うようになりました。大学生活も終わりに近づいたとき、健常者の中学生と障害者を一緒に遊ばせて、回なにがしかの成果を発表するというあるボランティア団体に参加する機会を得ました。ボランティアする際に、目が見えない世界や耳が聞こえない世界を体験することが義務づけられました。真っ暗な中、道を歩く体験は恐怖でしかありません。音が聞こえない状態で道を歩くのも、音のない状況はある種恐怖を感じ、想像を絶する困難が待ち受けていることに気がつきました。そんな体験を思い出させる映画「桜色の風が咲く」をご紹介します。

 関西の町で暮らす福島家、教師の夫・正美(吉沢悠)と令子(小雪)に3人の息子と暮らしています。3歳の時に右目を失明しますが、「僕は片目やから半分でええねん!」と宿題を半分しかやらずに遊びに飛び出すほど、人一倍やんちゃで口も達者な明るい少年です。9歳を前に、その左目も光を失いつつあり、医師からテレビを禁止された智は、ラジオで落語を聴くことが好きになります。入院中、同じ病棟の青年・矢野(札内幸太)から点字を教わり、「これ考えた人、天才やで」と持ち前の好奇心を発揮している息子の明るさは、令子は、もっと何とかできなかったのかと自分を責めてしまいます。そんな令子の姿を見て、夫・正美は、「智が光を失う前に、多くの景色を見せてやろう」と提案し、家族で海へ出かけます。海に感動し、兄たちとはしゃぎ回る智は記憶に刻もうとするかのように、一人一人の顔を笑顔で見上げます。その日の家族写真は、皆にとって特別なものとなります。

 やがて智(田中偉登)は成長し、東京の盲学校に進学します。寮まで付き添って行き、一人で生活していけるか心配する令子に、智は、「お母ちゃん、僕には耳がある。だから大丈夫や」と笑顔で告げます。いつの間にか成長していた我が子に令子は驚き、夫の正美に感動を伝えます。

 智は、高校生活を満喫しています。寮も一緒の山本(山崎竜太郎)と親友となり、カフカの小説『変身』や吉野弘の詩を読みふけり、同級生の真奈美(吉田美佳子)に淡い恋心を抱き、彼女が弾く音楽室のピアノを幸せそうに聴く日々を過ごしています。

 一方、令子は点字を学び、参考書の点字翻訳をして智に送っていますが、智は「お母ちゃんは点字がヘタクソなので細心の注意でお願いします」と手紙に書いてきます。人の苦労も知らぬような生意気ぶりに腹を立てたものの、令子は結局、正美と顔を見合わせて笑い出してしまいます。

 ある冬。令子は、帰省した智の耳の異変に気づきます。診察した医師は、聴力を失う可能性を告げます。日ごとに音が失われていく衝撃と苛立ちの中、智はある運動療法を試すと決めます。その日から、10kmものランニングに自転車で伴走することが令子の日課となりました。令子の腰に巻いた帯の先端を智に握らせ、人目も気にせず、智の隣を伴走すします。今の彼女には、智がしたい事なら何でも支えてやろうというたくましさと覚悟がありました。

 光を失い、今また「好きな落語も音楽も聴けない」世界に変わろうとしています。令子は、智を思って苦悩します。18歳になり、聴力を失い、暗闇と無音の宇宙空間に放り出されたような孤独感にさいなまれます。コミュニケーションの手段は、母が触れる手と母の打つ点字の紙だけです。「僕の世界は紙きれ一枚になってしまったんやな」と智は呟きます。

闇の世界の中にいる智はこの後どうなるのか、ぜひ映画館に足を運んで観てください。

この物語は、東京大学先端科学技術研究センター教授の福島智さんの半生を描いた作品です。

人間は一人では生きられません。必ず同伴者がそばにいます。それに気づかずに生きている私たちにとって、厳しい現実の中で、かけがいのない人がそばにいることに気がつくことで先の世界が開かれてくるということを改めて考えさせられる作品です。

中村恵里香(ライター)

11/4()シネスイッチ銀座、ユーロスペース、新宿ピカデリー他全国順次ロードショー

公式HPhttps://gaga.ne.jp/sakurairo/

スタッフ

監督:松本准平、脚本:横幕智裕 、音楽:小瀬村晶、 製作総指揮・プロデューサー:結城崇史、協力:福島令子 福島智

キャスト

小雪、田中偉登、吉沢悠、吉田美佳子、山崎竜太郎、札内幸太、井上肇、朝倉あき、リリー・フランキー 

エンディング曲:辻井伸行「ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ 第8番 ハ短調 作品13 《悲愴》 II. ADAGIO CANTABILE

製作:スローネ、キャラバンピクチャーズ 制作:THRONE INC.KARAVAN PICTURES PTE LTD

製作国:日本/日本語/2022113分/英題:“A Mother’s Touch”

©THRONE / KARAVAN Pictures

配給:ギャガ 


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

six + 1 =