マリア・クララ(麹町教会)
ウクライナ侵攻の画面がテレビに映っていた。瓦礫の街の風景から近影になって、2歳くらいの女の子が側溝をまたいでこちらに向いた。その目が画面をとらえて、私の目と合った。瞬間私は同化したような感覚を持った。戦争の真ん中にいる2歳の少女の中に。
一人でいるけれど、お母さんはいるのだろうか。お父さんは、戦争に行っていない?
まだ生きているの……?
1945年7月、私は2歳だった。多分、ウクライナの少女と同じように、何も知らない元気な子供だった。
家族は祖父母と嫁入り前の叔母は2人、叔父が1人、そして母と私。大所帯でいつも誰か居て寂しいことはなかった。
近所には仲良しが5人くらい居ていつも一緒に遊んでいた。終戦直後で、物はなく貧しかったが、私たちの町は震災に合わなかったのでつましいながらも暮らしてゆけた。
一番仲良しの安子ちゃんのうちは3人家族だった。お父さんはお母さんに比べてずいぶん若く、子供心にお兄さんみたいと思ったことがある。安子ちゃんもお母さんもお父さんにはとても気をつかっていた。お父さんがいると声が小さくなるのが不思議だった。怒ると怖いんだよと安子ちゃんは言ったが、私は怒ったところを見たことがなかった。
早苗ちゃんのうちは大きなお姉さんとお兄さんがいた。2人とももうお勤めをしていた。早苗ちゃんはお姉さんとよくけんかをしていたけれど、私はお姉さんがおしゃれをして出かけるのを見るのが好きだった。
「何よ、すかしちゃって」
早苗ちゃんの言い方が面白かった。
早苗ちゃんのお母さんは歳を取っていた。大きい子供がいるから早苗ちゃんは遅く生まれたのだろう。
ある日遊びに行ったら、知らない男の人がいた。口ひげを生やしていて、廊下で新聞を読んでいた。
早苗ちゃんに「あの人誰?」と聞いたら、「お父さんだよ。今日は会社が休みなの」と言った。
私は家に帰って祖母と母に言った。
「早苗ちゃんちにお父さんがいたよ。安子ちゃんちにもお父さんがいるし……、うちだけお父さんがいないね」
考えてみれば近所のすべてのうちにお父さんがいると改めて気づいたのだ。
それに対して祖母も母も何も言わなかったと思う。
あなたのお父さんは戦死したのだということを、学齢前の子供に話すのは難しいことだ。
まだ終戦から5、6年。祖母も母も説明できるほど、気持ちの整理もついていなかったことのか。
50軒くらいの町内だったが、戦死した人は他には聞かなかったように思う。
あの、テレビ画面で会ったウクライナの少女は、無事に両親が育てられるだろうか。戦災遺児になってひがむようなことはないだろうか、戦災孤児になって施設や養親に育てられる環境になりはしないか。
戦争は都市を破壊し経済も混乱させる。命を奪うし周囲の人たちの悲しみも深い。それだけではない。
あの女の子はつい昨日まで両親とともにゆっくり幸せに暮らしていたはずだ。その小さな人生でさえ方向を狂わせる。生きている限り、77年過ぎても引きずってゆく。
支配者の罪は永劫に続くと言っても過言ではない。