水の洗礼と聖霊の洗礼 マタイの福音書3章11節


佐藤真理子

私はあなたがたに、悔い改めのバプテスマを水で授けていますが、私の後に来られる方は私よりも力のある方です。私には、その方の履物を脱がせて差し上げる資格もありません。その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。

(マタイの福音書3章11節)

洗礼は、新しいいのちの始まりを示す、とても喜ばしいものです。今回は、洗礼についてこれまで考えさせられたことをシェアしたいと思います。

 

多くのクリスチャンはキリストを信じると洗礼を受けます。洗礼には様々なやり方があります。額に水を垂らしたり、頭に水をかけたり、あるいは全身を水に浸す仕方があります。時々、教会を移籍する際に別の教派で洗礼を受け直したり、教会によっては洗礼の仕方が異なることで聖餐が受けられない場合がありますが、聖書は洗礼についてこのやり方でなければならないと規定してはいません。ですから、どのようなやり方であっても、同じ意味を持つものとして理解できます。どの教派のどのような仕方の洗礼であっても、キリストの御名によるものならば、同じ洗礼です。

洗礼は殆どの場合、一定の学びをした後、聖職者が授けます。私自身そのようにして洗礼を受けましたし、それが可能ならばそのようにするのが良いと思うのですが、いろいろな事情によって、それが難しい立場の方もいらっしゃると思います。そのような方にお伝えしたいのは、聖書は誰が洗礼を授けることができるのかという規定をしていないということです。聖書にあるのは、キリストを信じている人々が信じた人に洗礼を授けていたことの記録です。

パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、――バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが――ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。

(ヨハネ4:1~3)

カトリック教会は、洗礼を司祭がしなければならないとは定めていません。勿論ほとんどの方が教会で司祭から受けるものではあるのですが、例えば誰かの臨終の際など緊急の場に居合わせる場合などを考えると、洗礼を司祭以外が授けられるということが明確にされているのはとても良いことだと思います。

(カトリック伊那教会のサイトに参考になることが書かれています。こちらのページをご参照ください)

プロテスタント教会はあえてそれを明確に打ち出している教会はあまりないかもしれません。しかし、聖書に従うという点では一致していると思います。先ほど述べたように、聖書は「誰が洗礼を授けるべき」とは規定していません。勿論、平安な状態で教会で洗礼を受けられる方はそのようにしていただくのが良いと思います。しかし、現在パンデミックの最中でもありますし、入院中の方の訪問も規制されている中、いろいろな事情でそのようにできない方がいらっしゃると思います。そのような方は、あまり難しく考えず、キリストを信じた人には、「すぐにあなたが」洗礼を授けることができるという事実を頭の片隅に置いていただければ嬉しいです。

 

冒頭の聖句は、洗礼者ヨハネがキリストについて語った言葉です。キリストは「聖霊と火」で洗礼を授けるとあります。この聖句を読むと、水の洗礼は勿論大切ですが、キリストによる目に見えない洗礼はそれ以上に大切なもののように思います。

私が以前住んでいたキリスト教の寮では、役員は水の洗礼を受けていることが条件でした。そのためキリストを信じている人であっても、無教会(無教会では水の洗礼を行わないことが一般的です)の寮生が役員になることはできませんでした。そのような経験から私は、水の洗礼の有無で何かを差別することはできないのではないかと感じました。水の洗礼以上に大切なのは、心の割礼、キリストによる洗礼だからです。

キリストによる洗礼は、人がキリストによって生まれ変わること、新生だと思います。私自身幼いころからキリスト教と関わっていたので0が100になったというような劇的な経験はありませんが、それでも確実に自分の中で何かが良いほうに変わった、生まれ変わったという自覚がありました。人によって明確であったり、徐々に経験するものだったりすると思いますが、キリストを信じると、いのちを得ます。いのちの木であるキリストは「いのち」を与える方だからです。人が罪に死に永遠のいのちを得ることが、新生です。もちろん罪に死んだからといって罪を犯さないわけではありません。しかし、キリストのいのちは、人を生かすからこそ、「これは罪だ」という感覚を与えます。死んでいる人は何も感じることができません。生かされた人は罪に葛藤し離れようとする生きた感覚や、神に対する深い喜びが与えられます。

 

「聖霊によるバプテスマ」と言うと、「異言」をしるしとする教会もあると思います。異言は、聖霊派の方には馴染み深いものでしょうし、教会によっては異言で祈る人に会ったことがないという方もいらっしゃると思います。異言についてはいろいろな立場の教会がありますが、否定することも固執することも聖書は勧めていません。異言を話さないから聖霊のバプテスマを受けていないと決めつけることはできませんし、異言を教会の中で必要以上に語ることもパウロは勧めていません(1コリント14章参照)。

1コリント14:2には、異言は「神に向かって語る」ものだとあります。自分の中に言葉にならない思いがあるとき、どう祈ったらよいかもわからないとき、言語化しないでも良い祈りがあるということを思い出していただければ嬉しいです。難しく考えず、一人の時に、神に向かって、「言葉にしなくては」という概念を外して、ただ思いのまま、導かれるままに声にして話してみてください。

私自身はプロテスタントですが、コロナ前はカトリックの黙想会によく参加していました。個人的には黙想の中での祈りと、異言はよく似ていると思います。どちらも言語を超えた祈りという点で一致しているからです。プロテスタントの方でも、沈黙の中で神に祈る方はいらっしゃると思います。このような観点から考えれば、異言を殊更に特別視する必要性は無いのではと思います。

 

今回シェアしたことは、既にそのように理解していたという方もいらっしゃれば、バックグラウンドによっては違和感のある方もいらっしゃるかもしれません。ただ、ここに記したことで、何かと葛藤していた方が自由になれるヒントあれば嬉しいです。

最後に冒頭の聖句をもう一度引用します。

私はあなたがたに、悔い改めのバプテスマを水で授けていますが、私の後に来られる方は私よりも力のある方です。私には、その方の履物を脱がせて差し上げる資格もありません。その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。

(マタイの福音書3章11節)

 

佐藤真理子(さとう・まりこ)
東洋福音教団所属。
上智大学神学部卒、上智大学大学院神学研究科修了、東京基督教大学大学院神学研究科修了。
ホームページ:Faith Hope Love

 


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