石川雄一(教会史家)
聖書に登場する最も有名な女性の一人であるマグダラのマリアは、フラ・アンジェリコ(1395頃-1455)やエル・グレコ(1541-1614)の絵画をはじめ、シャルパンティエ(1643-1704)の音楽やマーティン・スコセッシ(1942-)の映画などで様々な形で描かれています。時代や場所を越えて芸術家の想像力を刺激してきたマグダラのマリアですが、実は聖書に登場する回数は多くありません。それどころか、様々な芸術作品で描かれる「罪深い女」や「回心した娼婦」というマグダラのマリア像には聖書的根拠はないことをご存じでしたか。
数多くの芸術作品の題材となっていながらも聖書にはあまり登場しないマグダラのマリア。彼女はどのようにして人気の聖女となったのでしょうか。また、なぜ彼女には娼婦というイメージがあるのでしょうか。歴史から紐解いてみたいと思います。
先ほども述べましたように、マグダラのマリアが聖書に登場する機会はあまり多くありません。彼女の存在が明言される箇所は、具体的には、十字架につけられたイエスを見守る婦人の一人として言及(マタ27・56、マコ15・40、ヨハ19・25)される他、埋葬の立ち合い(マタ27・61、マコ15・47)、そして復活したイエスとの出会い(マタ28・1-10、マコ16・1-10、ルカ24・10、ヨハ20・1; 11-18)です。ルカ福音書では磔刑と埋葬の立会人になった女性たちは単に「ガリラヤから来た婦人たち」とだけ記されていますが、その中にマグダラのマリアがいたことは想像に難くありません。つまり福音書では、マグダラのマリアはイエスの死と復活に関係する場面に登場するのです。また、彼女が復活のイエスに初めて会った人物だという認識も共通しているようです。
ちなみにマタイ、マルコ、ヨハネ福音書には記されていませんが、ルカ福音書によるとマグダラのマリアは「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち」(ルカ8・2)の一人であったようです。「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たち」は、「自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」(ルカ8・2-3)とあることから、マグダラのマリアはある程度の資財を有する女性であったと推測する専門家もいるようです。
いずれにせよ、聖書がマグダラのマリアにはっきりと言及しているのは、ルカのみが記している上の箇所と、全福音書が記録するイエスの死と復活に関係する場面のみです。やはり、マグダラのマリアが聖書に登場する回数は特別多いとは言えそうにありません。彼女の人気の秘密を知るため、4世紀以前の初代教会の時代を見てみましょう。
キリスト教の発生と時を同じくして、グノーシス主義と呼ばれる考え方が東地中海世界に広がりました。キリスト教の内外に影響を及ぼしたグノーシス主義は、独自の神話や二元論を唱えて、正統な教会の思想家たちと対立することになります。教会史上の最初の異端とも言えるグノーシス主義は、自分たちの世界観を正当化するために数々の偽書を作成しました。そんなグノーシス主義者が作成したと考えられる文書の一つに『マリア福音書』があります。
19世紀に偶然発見された『マリア福音書』の前半部は欠落しているため内容を知ることができません。現存する『マリア福音書』は、復活のイエスと想定される「救済者」が弟子たちに最後の教えを伝えて去っていく場面から始まります。ペトロら弟子たちはイエスが去ったことに悲しみ、恐れからか、宣教の旅に出ることにしり込みします。こうした不甲斐ない弟子たちに対し、マグダラのマリアと思われる女性が立ち上がり、ペトロたちが知らない「救済者」の教えを語りはじめます。この教えの内容も残念ながら完全には残っておりませんが、弟子たちの反応は伝わっています。ペトロは「イエスがマグダラのマリアにだけ教えを伝えるはずがない」と考え、他の弟子たちと共に彼女と対立します。ですが最終的には、「イエスは他の弟子よりもマグダラのマリアを愛しており、彼女にだけ特別な教えを伝えたのはありえることだ」という結論で文書は閉じられます。
『マリア福音書』に見られるペトロとマグダラのマリアの対立構造は、ペトロを筆頭とする正統教会と対立するグノーシス主義者という構図と一致するかもしれません。そうであるならばこの文書は、グノーシス主義は正統教会が知らない真のイエスの教えを知っているという主張をするために書かれたと考えることができるでしょう。
ですが一方で、初代教会では本当にペトロとマグダラのマリアは対立していたと考える学者もいます。新約聖書も記す通り、マグダラのマリアは最初に復活のイエスに出会った人物であったため、初代教会は彼女に対して特別な敬意を払っていたことが窺われます。弟子の筆頭と目されていたペトロが、自分よりも先に復活のイエスに出会ったマグダラのマリアに何らかの嫉妬をした可能性も捨てきれません。
また、『マリア福音書』のような文書である『フィリポ福音書』には、イエスが度々マグダラのマリアの口に接吻していたと記されています。『ジーザス・クライスト・スーパースター』や映画『最後の誘惑』(1988)などの現代の作品でマグダラのマリアがイエスの恋人として描かれているのには『フィリポ福音書』の影響があるのでしょう。
『マリア福音書』や『フィリポ福音書』など正統教会の外側で書かれた文書は、マグダラのマリアをイエスから特に愛された弟子として描きました。その背景にはペトロに代表される正統教会とグノーシス主義者との対立があったとも、実際にペトロとマグダラのマリアが対立していた事実があったとも考えられます。いずれにせよマグダラのマリアは、正統教会の聖典である新約聖書にはあまり登場しませんが、グノーシス主義者が著した外典では中心人物として活躍しており、古代から周縁の人々に支持されていたことが窺い知れます。
4世紀、キリスト教がローマ帝国に認められる一方でグノーシス主義が弱体化すると、それまで見られていたようなペトロに対抗する人物としてのマグダラのマリア像は姿を消していきます。キリスト教はローマ帝国の国教となっていく過程で、いわゆる「男性原理」に基づく統治体制を形成していき、女性の指導者という考えが薄まっていくのです。
著名な神学者たちもそうした流れを思想的に正当化していきました。例えば、アンブロジウス(340頃-397)は、「ノリ・メ・タンゲレ」(「我に触れるな」という意味のラテン語で、復活のイエスに出会ったマグダラのマリアがイエスから「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言われたヨハネ福音書20章17節の出来事)を以下の様に解釈し、マグダラのマリアに対するペトロら男性の優位性の証拠としました。即ち、女性であるマグダラのマリアではなく、男性である弟子たちがイエスの復活の証人にならなければならなかったため、イエスは彼女を「兄弟たちのところへ」(ヨハ20・17)派遣した。マリアには体を触れさせなかったイエスは、その後、トマスに対して「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹にいれなさい」(ヨハ20・27)と言っているではないか。よって、イエスは触れてもらいたくなかったのではなく、女性であるマグダラのマリアより先に男性の弟子たちに証人になってもらいたかったのだ、と。
アンブロジウスの例からもわかるように、4世紀以降、キリスト教会はローマ帝国と一致する形で「男性原理」を急速に促進しました。ですが、395年にローマ帝国が東西に分裂することで宗教状況が多少変化します。ラテン語圏である西ローマ帝国とギリシア語圏である東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が分裂したことにより、宗教上も西方と東方の間に溝が生じたのです。霊性や性理解の差からでしょうか、東方教会は西方教会のような「男性原理」化を急速には進めませんでした。東西教会が疎遠になったのに伴い、カトリック教会と東方教会の間でマグダラのマリア理解に違いが生じるようになるのです。
東方教会と異なり、「男性原理」の支配する西方教会は、グノーシス主義により女性指導者とみなされたマグダラのマリアを貶めようとする動きを継続しました。その流れの中で、イエスに接吻して香油を塗った「罪深い女」(ルカ7・36-50)やラザロやマルタの姉妹であるベタニアのマリア(ヨハ12・1-8)、「姦通の女」(ヨハ8・3-11)といった聖書に登場する様々な罪深い女とマグダラのマリアが同一視されるようになりました。特に大教皇グレゴリウス1世(在位:590-604)が591年の説教でこうした流れを認めたことは、「罪深い女」や「姦通の女」としてのマグダラのマリア像を画定させた決定的な出来事と言えるでしょう。
それに加え、エジプトのマリアという5世紀の元娼婦の修道女とマグダラのマリアの混同も指摘されています。東西教会が疎遠になった後の東ローマ帝国領エジプトに生きた修道女マリアの聖人伝が正確に西ヨーロッパに伝わらず、10世紀頃、形成されつつあった「罪深い女」としてのマグダラのマリア像と結合したとされています。
さらに、マグダラのマリアを巡る物語には様々な尾ひれがついて荒唐無稽な形で発展していきました。そのうちの一つが、マグダラのマリアは福音記者ヨハネの妻であったという伝説です。それによると、イエスに夫である福音記者ヨハネを取られたマグダラのマリアは、自暴自棄になって娼婦に身を落としましたが、イエスにより救われ、夫と共に福音宣教に従事したというのです。いずれにせよ、このような経緯でマグダラのマリアには「罪深い女」「回心した娼婦」というイメージが付与されたのです。
初期中世の間に形成された「罪深い女」としてマグダラのマリア像を固定して広めた最大の著作は、ヤコブス・デ・ヴォラギネ(1230頃-1298)の『黄金伝説』でしょう。「ヴァレンタインって誰?」の記事でも紹介しましたが、『黄金伝説』は、様々な聖人のイメージの伝播に最も影響のあった本です。古くから伝わる様々な伝承を集めて平易なラテン語と挿絵で人々に聖人について紹介した『黄金伝説』の中で、マグダラのマリアは「回心した娼婦」として描かれ、そのイメージが定着するようになったのです。
また、『黄金伝説』には、マグダラのマリアは南フランスのプロヴァンスに宣教に向かい、その地で没したとも記されています。そのためマグダラのマリアはプロヴァンス地方の保護の聖女とされています。当時、そのプロヴァンスを支配していたアンジュー家という貴族は、北は英国、南はシチリア島やナポリまで広大な地域を支配する西欧最大の権力者集団の一つでした。そんな彼らは、プロヴァンスで盛んであったマグダラのマリア崇敬を、自分たちが支配する各地方へ広めていきました。こうしてマグダラのマリア崇敬は、西ヨーロッパ中に広がることとなったのです。
ここまで聖書の時代から13世紀までの歴史を紐解きながら、新約聖書にはあまり登場しないマグダラのマリアという女性が、どのように人気の聖女となったのかということを探ってきました。また同時に、聖書的根拠のない「罪深い女」「回心した娼婦」というイメージが彼女に付与された経緯も辿りました。東方教会と距離を置いた西方教会で独自に発展してきたマグダラのマリア崇敬は、長い間人々の想像力をかきたててきました。本記事で紹介した『マリア福音書』や『黄金伝説』は日本語に翻訳されていますので、興味がある方は是非読んでみてください。
[参考文献]
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池田敏雄『教会の聖人たち』、中央出版社、1977年。
カレン・L・キング『マグダラのマリアによる福音書 イエスと最高の女性使徒』山形孝夫・新免貢訳、河出書房新社、2006年。
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