倉田夏樹(南山宗教文化研究所非常勤研究員、立教大学日本学研究所研究員、
同志社大学一神教学際研究センター・リサーチフェロー)
本年2022年5月15日は、沖縄が本土復帰から数えて50年の日であった。今年も沖縄に行くことは叶わなかったが、沖縄在住の既知の友人や先輩方に話を聞いたり、横浜・東京で行われた2つの「沖縄復帰50年展」を観に博物館に足を運んだりして過ごした。ニュース、新聞も「沖縄復帰50年」をこぞって取り上げていた感がある。記念切手の販売や、NHKの朝ドラ「ちむどんどん」など、様々なメディアによって多角的に取り上げられたと言えるだろう。
一見、本土による沖縄への関心が深まったようなイメージもあるが、メディア先行で実質はどうだったであろうか。沖縄の人びとに言わせると、5月15日を境にパタリと収まった、という厳しい言葉もあった。本稿では、実際に訪れた2つの博物館の展示を中心に、5月15日前後に自らの中で起こった精神の動きについて書いてみたい。
「民衆の声を代弁する」のが新聞だが、全国紙ではなく島の地方紙は1972年5月15日をどのように伝えただろうか。沖縄本島では、『琉球新報』と『沖縄タイムス』という二大地方紙が発行されており、島民はだいたいどちらかをとっている様子だ。流通の観点から、島が自前で午前中に新聞を発行し、読者に届ける必要があることから地方紙が独自の発展を遂げている。論調はどちらもリベラルである。リベラル論調を嫌う人びとは、この二紙が偏向しているとし、新しく発刊された『八重山日報』を購読することもよく知られている。
沖縄県民は、主に基地問題によってリベラルと政府よりとに分断されており、石垣島では、リベラルは『八重山毎日新聞』を読み、政府よりは『八重山日報』を読む。同じく、宮古島では、リベラルは『宮古毎日新聞』を読み、政府よりは『宮古新報』を読んでいる。本土ではそうくっきりと出てこない「左/右」の立場が、沖縄ではより際立って見られるところにも特徴がある。
『沖縄タイムス』1972年5月15日付朝刊の1面の見出しは、「新生沖縄、自治へ第一歩」、『琉球新報』は、「変わらぬ基地 続く苦悩 いま 祖国に帰る」である。『沖縄タイムス』の社説には、「復帰は沖縄の地位の正常化を意味するかもしれないが、現実には異常な政治状況のなかにおかれることになろう。それを現在の歴史としてどうとらえるか。そこにわれわれの選択の問題がある」とある。
同日の『八重山毎日新聞』の1面見出しは、「『沖縄県』の夜明け 叫び続けて27年ぶり返還」。社説には、「何一つこれからよくなると期待されるものはない。悲観的な要素ばかりがのしかかってくるが、そのままこれが“琉球処分”になることさえ十分にある」とある。
同日の『宮古毎日新聞』の1面見出しは、「帰ってくる沖縄県」。社説には、「沖縄県民としては平和的外交によって復帰が実現されたことに対しては評価されるべきであり、祝福しておいてよいことだろう。しかし完全復帰をかちとるための斗いは五月十五日を期して始まると言えよう」とある。
どの新聞も、「復帰」に対して両の手を挙げて喜んではおらず、一歩退いた慎重な姿勢が見てとられる。『宮古毎日新聞』は、やや前向きな論調である。
この5月に足を運んだ2つの「沖縄復帰50年」展は、ニュースパーク(日本新聞博物館/神奈川県横浜市)の「沖縄復帰50年と1972」と、国立公文書館(東京都千代田区)の「公文書でたどる沖縄の日本復帰」(高良倉吉琉球大学名誉教授監修)である。
前者は、主に沖縄の地元紙『沖縄タイムス』と『琉球新報』の紙面を提示しながら、地元紙が「復帰」をどのように伝えたか、民衆がどのように捉えたかを伝えるものである。
企画展は、四部構成で、Ⅰ「沖縄の日本復帰」のほか、Ⅱ「1972 そのとき日本は 世界は」、Ⅲ「沖縄戦と米軍統治」、Ⅳ「復帰後の沖縄」についての紙面も展示している。
Ⅰの新聞の写真は、沖縄返還時の街の様子(国際通り)や、復帰記念式典、ドルから日本円への交換所の様子をありありと伝えている。新聞下面の三八(さんやつ)広告には、日本化させようとする意志か、日本文化を紹介しようとする出版社の意志か、源氏物語などの日本古典全集が載っていた。前項で、沖縄の新聞が「復帰」に対してアンビバレントな思いを伝えていたことは述べたが、「沖縄復帰」には、政府だけでなく、民間の様々な立場にある者の思惑も渦巻いたと言える。
Ⅱでは、元日本兵・横井庄一さんの帰還、札幌冬季五輪開催、あさま山荘事件、外務省機密漏えい事件、大阪・千日デパートのビル火災など、沖縄が日本復帰した同時代、1972年の出来事が伝えられている。Ⅲでは、沖縄戦についての写真や映像のほか、琉球政府成立、サンフランシスコ講和条約調印、米軍の強制土地接収、コザ反米騒動など米軍統治下の出来事を伝える紙面と写真が展示されている。Ⅳでは、復帰記念沖縄特別国民体育大会〔若夏国体〕(73年)、沖縄国際海洋博覧会(75年)、交通方法変更(78年)、沖縄国際大学への米軍ヘリ墜落(2004年)、首里城火災(19年)をはじめ復帰以降の沖縄をめぐる報道を紹介。
本土出身の私にとっては知らない報道内容もあり、「民衆の声を代弁する」新聞らしく、沖縄の民衆の思いがありありと伝わるものだった。何より、主催者側の伝えたい意志を強く感じた。基地に対する反対運動や、基地から派生する事件についても展示されていた。後援は、神奈川県教育委員会、横浜市教育委員会、川崎市教育委員会である。こちらは、4月23日から9月4日までの会期である。
【参考】企画展「沖縄復帰50年と1972」「近代日本のメディアにみる怪異」を同時開催(ニュースパーク)
後者、もう一つの「沖縄復帰50年」展、国立公文書館「公文書でたどる沖縄の日本復帰」は、厳しいセキュリティの下、住所、氏名を用紙に書いて入館。前者が新聞記事を展示するのに対し、「国の歴史」である公文書を展示。公文書の原本は、なかなかお目にかかることができない貴重なものばかりだ。
こちらも同じく、四部構成で、「第一部 沖縄戦と沖縄の日本からの分離」、「第二部 復帰に向けての動き」、「第三部 日本への復帰」、「第四部 沖縄の振興開発」となっている。第一部では、天皇の御璽(ぎょじ)が押されたサンフランシスコ平和条約の原本が展示されている。
第二部では、公文書ではなく、当時の首相・佐藤栄作が沖縄を訪問した日(1965年8月19日)の日記が展示されている。佐藤栄作は沖縄にとって、「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国にとって戦後が終わっていない」との言葉で知られる。しかし、「核抜き・本土並み」の宣言はまだ実現に至っていない。しかしながら、平和裡に「沖縄復帰」を結実させた政治家・佐藤栄作の一つの成果、1971年6月17日に調印された「琉球列島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」の公布原本が展示されている。
さらに、1972年5月15日、東京で行われた沖縄復帰記念式典での佐藤首相の式辞が展示されている。そこには、「戦中、戦後における沖縄県民各位のご労苦は、何をもってしてもつぐなうことはできませんが、今後本土との一体化を進めるなかで、沖縄の自然、伝統的文化の保存との調和をはかりつつ、総合開発の推進に努力し、豊かな沖縄県づくりに全力をあげる決意であります」とある。この言葉は、沖縄戦において玉砕を覚悟して海軍次官に送った大田実中将の電文「沖縄県民斯く戦えり。県民に対し、後世特別の御高配を賜らんことを」を想起される。どちらも、「未完の約束」であると信じたい。
後者の展示は、趣旨上仕方のないところもあるが、民衆の声というよりも、被開発の島に対する開発する側の「一方的な視点」というものを感じた。国というものは大きな存在である。中央政府の思惑と沖縄の心情、両者の間で絶えず綱引きがなされた経緯というものも深く感じさせる展示だった。できることとできないことがある中、公正・中立であろうとする関係者の奮闘が伝わる展示である。こちらは、4月23日から明日6月19日までの会期である。
【参考】令和4年春の特別展「沖縄復帰50周年記念特別展 公文書でたどる沖縄の日本復帰」(国立公文書館)
以上が横浜・東京で観た企画展だったが、沖縄での複数の企画展を見に行けない中、ネットで調べ物をしていた際に、沖縄県公文書館(沖縄県南風原町)がネット上である資料を公表しているのを見つけた。沖縄に関する「天皇メッセージ」(2008年3月25日公開、アメリカ合衆国立公文書館蔵/英文)を伝える資料の原本である。ネットにアクセスすれば、誰もが原本のPDFファイルをダウンロードできる。
【参考】米国収集資料“天皇メッセージ”(沖縄県公文書館)
アメリカは公文書を、ある期間が経つと公式に開陳する。本資料は、沖縄県公文書館の説明によると、1947年9月19日、宮内府御用掛の寺崎秀成が対日理事会議長兼連合国最高司令部外交局長ウィリアム・ジョセフ・シーボルトを訪問し、米国による沖縄の軍事占領に関する天皇の見解を伝えた内容を、シーボルトが英文でまとめ、同月20日付で連合国最高司令官に、同月22日付で米国国務長官に報告した内容である。沖縄県公文書館は、本資料に示された天皇の見解をこう伝えている。
(2)上記(1)の占領は、日本の主権を残したままで長期租借によるべき。
(3)上記(1)の手続は、米国と日本の二国間条約によるべき。
この内容は、「不都合な真実」というわけでもなく、知る人は知っている事実で、日本側の史料にも次のように克明に記されている。
沖縄メッセージ問題
(昭和二十二年九月)十九日 金曜日 午前、内廷庁舎御政務室において宮内府御用掛寺崎秀成の拝謁をお受けになる。なお、この日午後、寺崎は対日理事会議長兼連合国最高司令部外交局長ウィリアム・ジョセフ・シーボルトを訪問する。シーボルトは、この時寺崎から聞いた内容を連合国最高司令官(二十日付覚書)及び米国国務長官(二十二日付覚書)に報告する。この報告には、天皇は米国が沖縄及び他の琉球諸島の軍事占領を継続することを希望されており、その占領は米国の利益となり、また日本を保護することにもなるとのお考えである旨、さらに、米国による沖縄等の軍事占領は、日本に主権を残しつつ、長期貸与の形をとるべきであると感じておられる旨、この占領方式であれば、米国が琉球諸島に対する恒久的な意図を何ら持たず、また他の諸国、とりわけソ連と中国が類似の権利を要求し得ないことを日本国民に確信させるであろうとのお考えに基づくものである旨などが記される。
宮内庁編『昭和天皇実録 第十』(2017年)455、456頁
沖縄公文書館は、次のように解説している。「メモによると、天皇は米国による沖縄占領は日米双方に利し、共産主義勢力の影響を懸念する日本国民の賛同も得られるなどとしています。1979年(昭和54)にこの文書が発見され、象徴天皇制の下での昭和天皇と政治の関わりを示す文書として注目を集めました。天皇メッセージをめぐっては、日本本土の国体護持のために沖縄を切り捨てたとする議論や、長期租借の形式をとることで潜在的主権を確保する意図だったという議論などがあり、その意図や政治的・外交的影響についてはなお論争があります」(前掲、沖縄公文書館公式ウェブサイトより)。
時代の制約もある。英語の方の資料を読むと「日本を護ろう」とする昭和天皇の思いが伝わる(しかし、沖縄は身代わりの子羊にされた)。沖縄の人びとにとっては、苦しい内容に違いない。一方で、上皇(当時、皇太子)が沖縄を訪れる際に発した有名な言葉(1975年)がある。
石ぐらい投げられてもいい。そうしたことに恐れず、県民のなかに入っていきたい
矢部宏治著『天皇メッセージ』(小学館、2019年)27頁
これらの言葉は、分離と統合の「象徴的な言葉」にも見える。歴史は、時間をかけて進んでいくと信じ、まだ本土と沖縄との間の「未完の約束」が果たされる時があると信じる。
そのような沖縄に対して、本土側には相変わらずの無関心が続いていたり、それだけにとどまらず、「沖縄ヘイト」的言説がネット上に飛び交ったりもしている。様々な「意図」をもって沖縄にアプローチしてくる人びとがいることも念頭に入れながら、論拠のない陰謀論には惑わされず丹念に史料を繙きたい。
本土の人間でありながら沖縄に心を寄せた知識人に英文学者・中野好夫(1903~85年)がいる。サマセット・モームを研究した学者で、私の恩師・奥井潔先生が師事した人である。英文学者として有名だが、沖縄関連の書籍も多数出版していることを知り、以来読み耽った(ちなみに奥井先生は、戦前・台湾生まれ、学徒出陣で人間魚雷艇・回天の艇長〔一人乗り〕、死を決して出撃し生還したことを悲壮感なく授業中に話されていた)。
中野好夫は、本土の人間が沖縄に関わる理由として次のように書いている。
私たち本土の国民は、なによりもまずもっとよく、そして身近に、沖縄が置かれている実情について知る義務がある、と私は信じます。そして沖縄への認識は、まず私たちが沖縄の人たちに対して負っている道義的責任、負目から出発しなければならないというのが、少し大げさかもしれませんが、私の確信です。
中野好夫著「日本人のなかの沖縄」『中野好夫集Ⅳ』(筑摩書房、1984年)70、71頁
中野は、沖縄に関して筆を執ったのみならず、沖縄の実情を本土に知らせるために1960年、私費を投じて、沖縄に関する資料を収集し利用者に開放する沖縄資料センターを東京に開設した。当初、収集資料には、米軍政下にあった沖縄に関する時事的な内容のものが多かった。その時のことを、中野は次のように記す。
もともとセンター設立の目的は、なにも資料収集の量を誇るためではなかった。一にも二にも利用してほしかったのだ。渡航もまだ極度に困難だった本土の人たちに、少しだけ沖縄の実情を知ってもらいたかっただけである。
中野好夫著「沖縄資料センターのこと」『中野好夫集Ⅳ』(筑摩書房、1984年)187頁
現在、沖縄資料センターは、法政大学沖縄文化研究所として法政大学に移管され、誰でも自由に利用することができる。何とか、中野の意思を次世代に継ぎたいものである。
【参考】法政大学沖縄文化研究所
「50年後の琉球弧」の姿が想像できるだろうか。沖縄が現行の沖縄県になってからまだわずか50年しか経っていない。いつまでも日本の47番目の県でいてくれる保証はない。沖縄からは、「これ以上の不平等・不正義が続くなら、沖縄の独立という可能性もある」といった声まで挙がっている。50年後ということを考えた時に、沖縄は今とまったく違う形になっているかもしれない。独立という形もさることながら、「不平等・不正義」から離れて沖縄が他の国・地域への帰属を主張するかもしれない。沖縄のことを決めるのはあくまで沖縄である。
ただ私としては、これからも沖縄には同じ日本国であって欲しい。私にとって沖縄は友人のような存在である。半世紀の絆がある。しかし友人であるからには、対等、平等でなければならない。友人が不平等を訴えるなら、その解消のために尽力すべきである。「本土への基地引きとり」もその一手段であろう。そして、「未完の約束」(大田実/佐藤栄作)を果たすための時を、まだ沖縄と本土との間にいただきたいのである。
―参考文献―
比嘉幹郎著『沖縄――政治と政党』中公新書、1965年
中野好夫、新崎盛暉著『沖縄問題二十年』岩波新書、1965年
中野好夫、新崎盛暉著『沖縄・70年前後』岩波新書、1970年
中野好夫著『沖縄と私』時事通信社、1972年
中野好夫、新崎盛暉著『沖縄戦後史』岩波新書、1976年
『中野好夫集Ⅳ』筑摩書房、1984年
金城実著『知っていますか? 沖縄一問一答』解放出版社、2003年
豊見山和行編『沖縄・琉球史の世界 日本の時代史18』吉川弘文館、2003年
新崎盛暉著『沖縄現代史 新版』岩波新書、2005年
西谷修、仲里効編『沖縄/暴力論』未来社、2008年
新崎盛暉、謝花直美、松元剛、前泊博盛、亀山統一、仲宗根將二、大田静男著『観光コースでない沖縄 第四版』高文研、2008年
櫻澤誠著『沖縄現代史――米国統治、本土復帰から「オール沖縄」まで』中公新書、2015年
新崎盛暉著『私の沖縄現代史――米軍支配時代を日本で生きて』岩波現代文庫、2017年
高良倉吉著『沖縄問題――リアリズムの観点から』中公新書、2017年
宮内庁編『昭和天皇実録 第十』2017年
鹿野政直著『沖縄の戦後思想を考える』岩波現代文庫、2018年
矢部宏治著『天皇メッセージ』小学館、2019年
矢部宏治著『本土の人間は知らないが、沖縄の人はみんな知っていること』ちくま文庫、2020年
河原仁志著『沖縄50年の憂鬱――新検証・対米返還交渉』光文社新書、2022年