キリストは愛


立﨑太悟(上智大学文学部生)

これは私が洗礼を授かったことにまつわるお話です。キリスト教徒になることを決意したきっかけを語りたいと思います。その前に、この言葉からはじめさせてください。

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。

これはコリントの信徒への手紙一13章4節の言葉ですが、これを読むと、いつもなにか暖かいものに包まれたように感じます。私にとって、それは、日々の雑念を追い払ってくれる一節です。

今の世の中は、私たち人類が生きてきた歴史のなかで比較的自由であり、娯楽は充実しています。ですがその反面、なにか常に雑音が響き、なにか正体の知りえない強迫感に追われ、窮屈な思いに襲われてしまう世の中でもあります。そういった二律背反な世界を感じ取っているのは、私だけではないことと思います。

私は学生ですが、新型コロナウイルスによる影響で大学生としての新生活の出鼻をくじかれた世代です(2020年度入学)。最近では、そのウイルスと共存しようという考えも囁かれていますが、なおも緊張を保ち続けなければならない状況です。人とのつながりが絶たれてしまった状況が、1年、2年とつづきました。そのなかでも、Zoomといったオンラインビデオ会議サービスなどにより人とのつながりは保たれましたが、それでも、私のなかの孤独感は完全には拭い去られませんでした。

私がそういった気持を一番強く抱いていたのは、大学1年生のときのことです。右も左もわからない状況で、しかもそれに加えて入学式や新入生ガイダンスといったイベントも中止となり、本当に右も左もわからぬまま、あれよあれよとオンライン授業が始まりました。ワクワクが私のもとから逃げ去ってしまい、代わりに寂しさと不安が私のことろにやってきました。当然、それらを迎え入れる準備はできていませんでした。

準備はしていなくとも、人は機転を利かせて対応できるもののようです。というのは、寂しさと不安が私を襲ったのですが、それでもやらなけらばならないことはなさなければならないからです。気持ちに折り合いをつけ、大学の勉強に積極的に取り組みました。多くの授業を受けていたなかで、一番わくわくしたのがキリスト教に関する授業でした。

キリスト教の授業では旧約聖書を学びました。イスラエルの人々の壮絶な人生が語られていますが、なかでも、そこから希望や教訓を見出そうとするイスラエルの人々の強さを、旧約聖書から感じました。旧約聖書に一貫して描かれてると私が考えるのは、神への問いかけです。なぜお見捨てになるのか、なぜこのような目にあわせるのか、といった問いです。しかし旧約聖書の面白いところは、その逆も然りという点です。つまり、人と神との生々しい生き様を、旧約聖書は語ってくれます。

それに私はとても惹きつけられました。大学1年生のときの私はキリスト教徒ではありませんでしたが、その授業がきっかけとなり、教会の信仰入門講座に通い、晴れて、この復活祭に洗礼を授かりました。ここでは入門講座や洗礼式の感想を述べるべきだと思うのですが、以上のことを述べたのは理由があります。それは、こうして述べた、大学1年生の私にやってきた寂しさと不安が、授業や入門講座での学びを通じて、去っていったからです。

そして、それらの代わりに「愛」がやってきました。イエス・キリストのことを知っていくにつれて、イエスが手をさしのべてくれているという感覚が強まっていきました。

最初にもどりますが、愛は寛容であるというのは、イエスは寛容であると言い換えることができます。イエスのことは新約聖書に語られていますが、イエスは人を差別・区別せずお救いになったと伝えられています。それは、「愛は寛容である」という言葉に凝縮されるでしょう。

なにか常に雑音が響き、なにか正体の知りえない強迫感に追われ、窮屈な思いに襲われてしまう世の中、そしてコロナによる寂しさと不安を、そういったものが「寛容な愛」によって拭い去られました。そしてそれはイエスであり、常に私に手を差しのべてくださっています。

 


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