全き愛は恐れを閉め出す ヨハネ4章18節 


佐藤真理子

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。

(ヨハネ4:18)

聖書が示す大切なことの1つは、「恐れ」にどのように立ち向かって生きていくかではないかと思います。

詩編には度々「恐れ」について書かれています。特にダビデによる詩編はこれが多く、ダビデの人生が恐れとの戦いであったことが分かります。

サウルに追われ、アキシュからも殺される恐れがあり、周りが敵だらけで、味方がおらず、死がとなり合わせとなった状況の中で、ダビデは主に助けを求めました。

私が主を求めると、主は答えてくださった。 私をすべての恐怖から救い出してくださった。

(詩篇34篇4節)

恐れでいっぱいだったダビデは主に救われました。そして、唯一の恐れるべき方は主であることを知りました。すべてを支配しておられる方が、守ってくださること、他の者を恐れる必要は全くないのだということがわかったのです。

ダビデが恐れていたサウルもまた、ダビデに恐れを抱いていました。サウルは恐れを神によってではなく、自分の武力によって克服しようとしました。その結果、サウルは自分自身がその恐れに押しつぶされてしまったのです。

 

ヤコブもまた、ダビデのように追手から逃げつつ、自分が恐れる相手と出会う恐怖を味わった人でした。ヤコブは叔父のラバンのもとから逃げ出して旅し、兄のエサウと再会しようとします。ヤコブは兄のエサウから神様の特別な祝福である長子の権利をだましとった過去があり、エサウの怒りを買ったので、彼を恐れていました。自分がエサウに許しを請いに行く前にエサウに使いを送りますが、その使いは、エサウの方も400人と共にヤコブを迎えに来ていると伝えます。それをきいてヤコブは非常に恐れました。エサウが自分に対して怒りを燃やしているなら、それだけの大人数で迎えられては何が起こるかわかりません。

非常に恐れたヤコブは、神様に「兄エサウの手からわたしを救い出してください。」と祈ります。その日の夜、ヤコブは神の使いと戦い、イスラエルという名をもらって祝福されます。その後ヤコブがエサウに再会したとき、エサウは走ってきて彼を抱きしめました。

ダビデもヤコブも想像を絶するほどの恐怖を味わった人物ですが、二人とも神に助けを求め、恐れを乗り越えました。恐れの後に待っていたのは、大きな祝福でした。

 

私が神学校で学びたいと言った時、ある教会の先生がこの言葉を送りたいと仰って開いた聖書の御言葉がありました。それが「全き愛は恐れを閉め出す。」でした。振り返ると、私が神学生時代、最も学ばされたのは、この言葉でした。

その間いろいろなことがあり、私の中に、クリスチャンや神学校への恐れがあまりにも大きくなってしまったのです。誰にどう相談してよいかもわかりませんでした。助けてもらえるところなどないと思いました。

 

そのような状態に陥ってからは詩篇120篇1節「苦しみのうちに、私が主に呼ばわると、主は私に答えられた」という御言葉をにぎりしめて、祈りながら過ごしました。

イエス様が嵐の湖でも船の中に共にいてくださったという福音書の記述や、イザヤ書43章の次の御言葉にも勇気をもらいました。

「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。 わたしはあなたの名を呼んだ。 あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、 わたしはあなたとともにおり、 川を渡るときも、あなたは押し流されない。 火の中を歩いても、あなたは焼かれず、 炎はあなたに燃えつかない。」

私が恐れから脱出するために最も必要だったのは、神様への完全な信頼でした。全てを支配するのは神様だけであり、神様の御手の中ですべては最善となっていく事を全く疑わずに信じることが必要でした。神様にできないことは何一つなく、神様は全ての上に立つ全能者であり、必要なものも私の歩む道もすべて神様によって備えられることを、言葉だけでなく、本当に心から信じることが必要だったのです。

神様を信頼し、人を恐れないことは、神を愛することです。

サウルも、神に信頼しダビデを恐れていなければ、ダビデを愛することができたはずなのです。

 

恐れを感じない人生などありません。

恐れは何らかの形で必ず私たちに訪れます。恐れは神様から離れさせるためのものではなく、より神様と親しくなるために、より強い信仰を得るために与えられるものだと思います。

 

イエス様もまた、恐れと戦った方でした。

イエス様が恐れと戦ったのは、十字架前夜のゲッセマネでした。夜が明けてからご自分に何が起こるかわかっていたイエス様は、真っ暗闇で、たった一人で血の汗を流しながら祈ります。「どうかこの杯をとりのけてください。」

しかし、その祈りは「私の願うままではなく、あなたのみこころのままをなさってください。」という祈りに変わります。

最も恐ろしい場面で、イエス様は神様を絶対的に信頼し、全ての人への救いをもたらしてくださいました。十字架の後には、イエス様の復活が起こりました。

 

神様がもたらすのはいつも絶望ではなく希望です。私たちは何も恐れる必要はないのです。神は愛だからです。神は私たちを愛しています。

私たちは神様から生まれた者です。また、私たちは神様がイエス様を遣わしてくださったことを知っているので、神様の愛がどんなに大きなものかを知っています。愛の中にいつも正しいことがあり、真理があります。

神様は私たちを愛しているので、何があってもその先に希望があることを約束されています。

今日もその愛の中を平安のうちに歩んでいきましょう。

 

佐藤真理子(さとう・まりこ)
東洋福音教団所属。
上智大学神学部卒、上智大学大学院神学研究科修了、東京基督教大学大学院神学研究科修了。
ホームページ:Faith Hope Love

 


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