石井祥裕(AMOR編集部)
別稿で、カトリック新聞100年の歩みをまとめさせていただきました(記事はこちらから)。その歴史はこのウェブマガジン「AMOR 陽だまりの丘」にとっても、大切な歴史を思われたからですが、それとともに個人的な感慨もありました。
まったく個人的な思い出話なのですが、私自身、この『カトリック新聞』の編集部で2か年働いた経験をもっているからです。100年の歴史の中では泡粒のような時間ですが、とても大切な思い出になっています。あの歴史の前半60年にかかわった人々がすべて先輩に、そして、その後今に至る職員の方々のことがすべて後輩に思えるからです。結局、自分には適性がそれほどなかった編集の仕事でしたが、所期の目標であるカトリック教会を全国的に見てみるというためには、よい場を得たものと思っています。
ちょうど、私が30代の初め、カトリック新聞の編集部にいたとき、つまり1985~86年のときは、1984年に司教団が「福音宣教の基本方針と優先課題」を発表し、教皇ヨハネ・パウロ2世来日(1981年2月)の影響下(だったでしょう)で、全国的な共通課題を打ち出すという、思い切った意図が示されていたときでした。100年の歴史、そして、司教団直轄の事業になって10年を経ていたカトリック新聞にとって重要な時代であったことでしょう。結局、福音宣教推進全国会議(1987年、1993年)にまでを追うことはありませんでしたが、司教団直轄の新聞として、真価が問われることになる、大事な時期を見させてもらっていたのだと、ずいぶん後から(というか今になって)深い感慨に誘われます。新聞社を退職してからも、ずっとカトリック新聞は講読しており、はや35年。自分の目と耳であり続けていることは確かです。
もう一つの思い出は、1986年秋、東京カトリック神学院を会場に実施されたFABC(アジア司教協議会連盟)の大会を取材したことです。あのときの閉幕ミサ(東京カテドラル関口教会聖マリア大聖堂)は、白柳誠一大司教がアジアでの日本の戦争加害について謝罪のことばを述べたことで知られていますが、そのときの記事写真を撮影していました。その後、何度も引き合いに出される画期的発言の目撃者となったのだ、という、その出来事の重大さはようやく最近、感じている次第です。それとともに、カトリック教会の国際性、世界性に目を開かれ、それが留学への興味につながっていたったということは確かです。
そして、その後、『カトリック新聞』が自分にとって、編集部時代よりもはるかに重要なものとなったのは、4年間のヨーロッパ留学中、海外送付されてきたときでした。日本の教会のことをまとめて読んでみようとするとき、貯められたカトリック新聞は、重要資料として立ち現れてくれました。
別稿の資料とした、『カトリック新聞 2500号記念 苦難を越えて55年の歩み 先人に尊敬と感謝を献げて』という非売品(カトリック新聞社 昭和53年5月25日発行)の冊子は、編集部に入ったときの新人研修で配布されたものだったと思います。まったく無知であった日本のカトリック教会の戦前の歴史について唯一の窓口となったもので、大事に持ち続けていました。今、それがあらためて貴い資料に育ってくれたのは、ひとえに御導きのおかげと思います。