こころを開く絵本の世界 7


山本潤子(絵本セラピスト)

 人生に寄り添う

 絵本を読んでもらう時、子どもは物語の中に入り込み登場人物と一緒に擬似体験しているのでしょう、「もう一回、もう一回」とせがむのは楽しい体験や冒険を何度もしたいからだと思います。大人はというと、そればかりではありません。絵本の前では身構えることなく気持ちが緩み、社会的な役割や肩書きなどの意識が外れやすくなります。そして、いつの間にか絵本の物語を自分の人生に引き寄せて読んでいることが多いようです。
 それは大人の素敵な読み方だと私は思います。何人かで絵本の読み合いをした後、感想だけでなく絵本の中のキーワードを使って対話すると、過去の出来事や誰にもいえなかった感情がごく自然に言葉に出ることがあります。また、他の人との解釈の違いに気づき、「自分の当たり前」や「思い込み」を俯瞰し視野が広がることもあります。
  同じ物語を囲んでも100人いれば100の気づきや解釈があるという訳です。

『ぜつぼうの濁点』 
原田宗典:作、柚木沙弥郎:絵、久山一太:訳、教育画劇

 物語の舞台はひらがなの国、「あ」から「ん」までのひらがな文字がくっつき合って意味を持つ言葉となり暮らしています。主人公の「濁点」は「せ」の字にくっつき「ぜ」となり主人の「ぜつぼう」に長年仕えてきました。しかし、主人の絶望的な人生は自分のせいなのだと考え、主人に暇を願い出ると、「や行」の町の道端に置き去りにされたのです。濁点を捨てた主人は「せつぼう」という悪くない人生を送ることができるのだからと、濁点はその現実を受け入れたのでした。
 ところが、濁点だけで生きていくなどという珍事は建国以来なかったことでした。濁点が「や行」の町の住人に身の上を語り頭を下げても、誰も受け入れてはくれません。「ゆすり」は「ゆずり」になっては商売にならないともっともな事を言います。そこへ通りかかった大きな「おせわ」は濁点を放っておけず、文字通り世話をしてやると申し出ました。
「おせわ」に連れて行かれたところは「し」の沼でした。沼に放り投げられた濁点は主人を救うことができたのだから「これでいいのだ」と水の中を沈みながら呟いたのです。なんて悲しい濁点の人生なのでしょう。
ところが、ページをめくると、驚くような展開で物語はハッピーエンドを迎えたのでした。
 鮮やかな青色の地にユニークな平仮名文字が擬人化された表紙、中も見ずに衝動的にジャケ買いした絵本です。縦書きの文章、読み語りの時は左手に持ち、右手でページを送りながら読みます。
 以前、私は日本語を教えていたことがあります。一文字に一音の平仮名、「き」や「め」などは一つでも意味を持ちますが、いくつか集まって意味のある言葉に成長する過程を初心者に教えることが楽しくてたまりませんでした。五十音の行と段を覚えると動詞の展開もスムーズに進み、日本人でありながら「日本語ってなんて面白いのだろう」と魅了されることばかりでした。中でも「は行」は「てんてん」も「まる」も乗せることができ、濁音にも半濁音にもなれるのです。「は行に てんてんは ば行です」「は行に まるは ぱ行です」などと楽しい授業を思い出しました。最後の驚きの展開も日本語でなければ叶わないスーパーファインプレー、ますます日本語を誇らしく思ったのです。
 この絵本はどこで読んでも反響が大きく、たくさんの感想をいただきました。主人公が濁点なのが画期的、絵が美しい、落語のような講談のような語りが面白い。日本語を見直した、最後の大どんでん返しに驚いた。それぞれ視点は違いますが共感できる感想です。
 しかし、私の想像をはるかに超える感想もありました。「転職する決心がつきました」と職場の人間関係に悩んでいた男性、「くっつく相手も大事ですね。今のパートナーでいいのかしらって考えてしまいました」という五十代の女性、「これは翻訳出来ない絵本です」と翻訳家ならではの感想もありました。
 大人は自分の人生に引き寄せて読んでいるのだとつくづく実感することができました。
 こんなに面白い絵本があることを大勢の人に知ってもらいたいと思っていました。そして、ある女性にこの絵本を紹介する機会がありました。しばらくしてからその女性から電話がありました。「私も絶望の只中にあって濁点のように底なし沼に沈んでいくような状況だったけれど、沼底が見えたような気がしました。これ以上沈むことはない、濁点と一緒に人生の方向転換できると思いました。」という報告でした。職場での事故の後遺症で、周囲からは理解され難い辛い症状を抱え、希望が見いだせなくなっていたのだそうです。
 一冊の絵本、私にとっては面白くて楽しい絵本、しかし、ある人にとっては真っ暗な嵐の中で光を放つ灯台のように、生きる道筋を照らすこともあるのです。

季節の絵本

『あかいてぶくろ』林木林:文、岡田千晶:絵、小峰書店

  小さな女の子が赤い手袋で雪遊びをしています。たくさん遊んで濡れた手袋はストーブの前に並んでふわふわになります。ところがある日、女の子は右の手袋をなくしてしまいました。迷子になった右の手袋は森の中を転々とします。ウサギの帽子になったり、ネズミの布団になったりするうちに、破れてボロボロになってしまいました。
女の子は新しく右の手袋を編んでもらいました。女の子が手袋をして散歩に出ると、左の手袋は木の枝に咲いた赤い花のようなものが右の手袋だと気がつきました。木の枝に引っ掛かっている右の手袋もまた、左の手袋に気がつきました。離れ離れになってもお互いを忘れることはなかったのです。
春が近いある日、それぞれの人生を送るふたつの手袋はまたすれ違いました。ボロボロに姿を変えた右の手袋は今度はリスの大事なセーターになりました。

 絵本を閉じて目を瞑ると真っ白に輝く新雪が目に浮かんできました。小さな女の子だった私は、誰も踏まないうちに雪のキャンバスに私だけの足跡を残します。止まっては振り返りその足跡が描く曲線を確かめ、また曲線を描く、そんな楽しかった時代が蘇ります。雪遊びには帽子や手袋が大活躍します。手を温めるための手袋ですが雪に夢中になっているとすぐにびしょ濡れになってしまいます。右と左、いつも一緒に乾かしてもらいました。ミトン型の手袋は右と左が紐で繋がっていて、離れないようになっていました。5本指の手袋になると紐もなく、ちょっとお姉さんになったような気がしました。
 私の手袋も片方迷子になることがありました。春の雪解けの頃、可哀想な姿で見つかったり、誰かが木の枝にひっかけてくれて見つけたこともありました。
 色の少ない雪景色の中にあって赤い手袋のなんと華やかなことでしょう。手袋に限りません。雪だるまにかぶせた帽子やマフラーも、雪景色の中の落とし物は、身に付けているときよりも一段と色鮮やかで「ここにいるよ!」と訴えているように見えるものです。
 絵本の中の全てが私の幼い記憶と重なります。きっかけは雪景色と手袋、そこから空想と現実を自由に行ったり来たりしながら遊んだあの頃を、この絵本は簡単に引き出してくれました。
 そして、最後にもうひとつ記憶が蘇りました。雪遊びで濡れた長靴は翌朝出かける時にはホカホカでした。出かける直前まで母がストーブの前で温めていたのです。
 寒い季節を迎える前に心がふわっと温かくなりました。

 

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東京理科大学理学部数学科卒業。国家公務員として勤務するも相次ぐ家族の喪失体験から「心と体」の関係を学び、1997年から相談業務を開始。2010年から絵本メンタルセラピーの概念を構築。

https://ehon-heart.com/about/


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