わたしの信仰生活日記ー神の存在証明ー(8)重荷を背負いて


酒井瞳(日本福音ルーテル教会信徒)

1.役目と役割。

この記事を書いているこの日、私は友人の演劇を諸事情により観にいけなくなってしまった。普段からあまり観劇する方ではないので、突然のトラブルに悲しくなったほどだった。しかしそのおかげで、自分の過去に深く関わる、届いたばかりの本を読む気力が湧いてきた。その本とは、『牧師、閉鎖病棟に入る』(沼田和也著、実業之日本社 2021年)。私自身、13年前に閉鎖病棟に入院したことがあったので、本書を読むのは、精神的にしんどさがあった。

本書の中で特に印象的なのは、「男性性」や「男性特有の悩み」が強く出ている点だ。社会生活を営む上での毅然とした姿、「こうあらねばならない」という葛藤が、色濃く描かれている。一人で全てを抱え込んでしまい、人の悩みを聞くことはできても、自分の悩みは人に相談できないこと、ストレスの捌け口としての暴言、支える側から支えられる側になってしまう敗北感(と、男性は強く感じるようだ)など、様々な視点が織り込まれている。

たまたま演劇に行く気分だったので、役目や役というものを改めて考えてみることにした。

仕事の役職にも、上下それぞれ立場というものがある。その中で、誰しもが社会的な責任を担い、それなりに無理をしながら役目を果たしていく。もし、そんなものが必要ないなら、誰も自殺することも、メンタルを壊すこともないかもしれない。時には、背後にある無数の責任のために、言いたくないことを言わされたり、やりたくないことをやらされたりすることもあるだろう。それでネット上で叩かれるというような、そういう悩みを持つ人は、無限に存在しているかもしれない。

私は一時期、演劇を生で観るのが好きだった。そのうちに、脚本を忠実に表現することを目指す劇団と出会い、観に行ったことがあった。誰かが書いた脚本通りでも、指定された台詞の言葉でも、その役者にしか表現できないものがあるのだと感じた。

心理学的に考えて、本業の役者は精神的にハードだと思う。その時その時、一定期間その役に入り込み、そうしているうちにまた次の役が回ってくる。それは本当の自己を見失いそうで、私ならアイデンティティ・クライシスになりかねない。自分という確固としたものを、どうやって維持しているのだろうか。しかし、そうした彼らの努力によって出来上がる演劇、または映画は、間違いなく、多くの人の人生を豊かにしている。劇場の暗がりに入ったとき、人は視野を広げ、多少なり価値観や世界観が変化した状態で、そこから出ていく。映画や演劇の、そういう所が私は本当に好きだ。

 

2.閉鎖病棟で過ごして。

沼田先生の著書から、閉鎖病棟という場所は、本来自分のいるべき場所ではなく、健全な自分が、たまたまここに入ってしまったという印象を、私は受け取った。私も閉鎖病棟に入院した経験はあったが、そこでの入院生活を書いてみることはもちろん、誰かに言うことも13年やってこなかった。本書や、数年前に上映された映画『閉鎖病棟―それぞれの朝―』も、ここ最近になってようやく観ることができるようになった。ただ、そんなに正常と異常という境界線はあるのだろうか。

確かに、他害行為はいけない。言葉においても、行動においても。だが、精神病院の外には、何度他害行為を繰り返しても何の罪悪感も持たず、反省もしない人間がいるのではないだろうか。例えば、常日頃から嘘をいう人もいる。そういう、繊細さのない人間を健常と言えるのかどうかは、私にはわからない。

むしろ、私は閉鎖病棟にいる人たちのことを、きれいだと思った。年齢もバラバラで、それでもなんとなく一緒に生活をしていて、無条件に衣食住は揃っているけれども、自由はない、という制約の中で「自由」であった。不思議な世界だった。この世界の中では、反抗せずただ従順に規則を守ることで、永遠の平和が約束されている。そして、その狭い世界に20年も30年も過ごす人もいる。そして、この閉鎖された空間の中で、人生を終わらせ死んでいく人たちも大勢いる。

たしかに不思議な人がたくさんいたと思うけれども、よく話す友人のような関係もあったし、決してそこの人たちの過去や悩みが他人事には思えなかった。なんだかんだ言って、みんな優しかった気もする。

本書によれば、沼田先生は、その後他責的な姿勢の変化や、アンガーマネジメントという、突発的な怒りの爆発を抑制する態度を身に着けたという。また、そもそものきっかけとなった沼田先生の赴任先の教会での、何の知識もないのに任された幼稚園運営での対人関係によるストレスと、それによって悪化していった過度なSNS依存から脱出する機会にもなった。そして、入院中に阪神淡路大震災という強烈な体験、信仰を揺さぶられ過去を見直す中で、だんだんと落ち着いていき、開放病棟に移動し、そして退院していったという。

本書で特に印象的な部分は、やはり、男性なら誰しもアンガーマネジメントが必要なのだろうということだ。それは女性についても同様ながら、男性性の特徴を感じるものだった。このアンガーマネジメントは一般的な精神科でも、効果をあげるのは相当難しいと考えられ、この病院だけのプログラムなのかもしれないが、このような良いことが現在は治療のプロセスに組み込まれていることに驚いた。

そして、沼田先生は、再度教会の赴任をめぐり、怒りが爆発しそうな状況に何度も対面する。しかし、彼は怒らない。それが、彼をまた牧会者として立つことに導いていった。「怒り」とは、父なる神も持つ特性である。父性でもあり、男性性の象徴のようにも感じられる。確かに女性の怒りもあるが、男性の怒りは持つパワーが格段に違う。何度か遭遇したが、心身が根幹から震えるようなものだった。

ところで、この作品に出てくる少年のマレについて、もっと寄り添う聞き方はあったのではないだろうか。私も昔は、どちらかといえばマレに近かったような気がする。マレが怒りに傷ついたまま終わってしまったことは、残念でならない。

傷つけること、痛いこと、悲しいこと、苦しいこと。他者への共感といったものは、誰もが持っていると思う。そこに気付かせ、ヒントを周りが提示することは可能ではないだろうか。マレの、「人を傷つけたら、どうしていけないの?」という言葉には、表面的なもの以上の深みがあるように思われる。「妹を金槌で殴った」というような、ある事件の一部分だけをフォーカスすることによって、病みの本当の原因を隠してしまうこともある。その背後にある、日常的に繰り返される家庭環境や、その他の生活環境から語られない部分も大きいのだろう。そして結局は、被害者の方が加害者であった、というような、より大きな事件性や加害性があっても、決して自分からその事を言わないということもありうる。だから、マレに更生する可能性はないと簡単に考えることも、難しいはずだ。そこには、言葉にできないこともあれば、思い出さない方がいい記憶もあるのかもしれない。

 

3.閉鎖病棟と信仰。

私が退院したきっかけは、全てルーテル教会のおかげだった。再びルーテル学院大学に戻りたいという願いを持ち、また教会に行きたいと思えたことにあった。もちろん、ルーテル学院大学での生活の中でも、多くの精神的な疲労や身体的な困難もあったのだが、周りの人間関係や教会活動のおかげで、どうにかリハビリ同然の日々を乗り越えることができた。私にとって、ルーテル学院大学も教会も、青年活動諸々は本当に救いだった。そして、それは今も続いている。

私にとっては、沼田先生が言うほどに、聖書の言葉は、閉鎖病棟では全く役に立たなかったり、意味がないわけでもなかった。おそらく、聖句そのものだけでは意味を成さないこともあるだろう。しかし、その聖書の御言葉の根底に流れる、生活に即した意味がある。それは、聖書学的な読み方なのかもしれない。聖書の中の人間が持つ純粋さの中にある、狂気も含めて、全てが、今もここに生きている人間なのだ。全く知識は不足していたが、私にとっては、神学との出会いは内的に刷新される出来事だった。ただ礼拝に出て、ただ聖書研究に行くよりも、神学を学ぶことで、より人生の広がりを体験した。

ところで、私がこの本を読んで怖いと思ったのは、沼田先生本人が自分の変化に気付けていないというところだ。周りの入院患者のことはとても観察しているのに、自分の身体機能の低下や、思考の鈍化には気付けない。それこそ、会話できて自分で歩けた人が、1ヶ月程度で車椅子生活になり、言葉が履かせなく成るような出来事に近いことが、実際に私自身の身にも起きていた。それは、大量投薬による副作用であったのだが、今考えても恐ろしい体験だった。

 

4.ある映画の話。

最初の話に戻るが、劇団の友人は、ある映画の中で、精神病院にいる少女の、混ざり合う妄想と現実の中で、唯一の救済の希望である「彼」となっていた。「彼」は、少女と出会い、劇中のかなり早い段階で自死している。けれども、少女の「世界」の中では、彼の死後も何度も繰り返し現れ、少女の生きる希望として存在している。それは、記憶なのか、思い出なのか。そもそも、「彼」自体が、本当は存在しない存在なのか。それでも、その妄想のような光の中にこそ、少女の生きる意味があった。最後のシーンで、少女が「彼」の思い出と、「彼」の居た場所を去るときに、本当の物語が始まるというストーリーである。私は、この映画を観て大きな衝撃を受けた。かつて付き合っていた人が自死した経験があるからだ。私にとって、自死した彼は将来の約束もしていた、本当に「生きてほしい」人だった。私の方は閉鎖病棟に入って生き延びたのに、彼は、精神科に行くことすらせずに、私の退院後の姿にショックを受け、自死を選んでしまった。それは決して「弱い」とか「強い」という次元の話ではない。神の愛が彼に届かなかったわけでもない。ましてや、神に見放されたわけでもない。苦しみの度合いは人それぞれだから、彼の苦しみが私より多いとか少ないとか、そういう話でもない。何が正解なのかはわからないが、私は、彼もまた、健全な意味で精神病院に入院すべき状態だったのかもしれないと思っている。沼田先生も、自死するしかないというパニック状態の中から入院を選んだように、当時の私の彼にもそういう可能性はあったはずなのに。しかしながら、あの当時の私の事を知っている人間ならば、誰も精神病院を勧めることなどできなかった。本当に、当時という時代が悪かったとしか言えない。

そして、本書の最後で、沼田先生はまた牧会の現場に復帰する。周りに「(入院歴のある)精神障害者なのに」などと言われても、やり抜いたのだ。そこに私は心が震えた。今の時代、様々な牧師がいると思う。みんながそれぞれ、悩みや苦しみを負いながら牧会をしている。それぞれの役割を果たしている。だからこそ、沼田先生のように、一時期休職しても、戻れるようであってほしい。そういうネットワークや知恵は、どこの教会においても、より見直されるべきだと強く感じた。

 


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