鵜飼清(評論家)
鶴見俊輔さんは、漫画が大好きで、漫画について独自の評論を書かれています。幼い頃に、漫画によってこころが救われたという経験を持っているからということのようで、その漫画への愛着は一つの思想となって残されています。
『方法としてのアナキズム 鶴見俊輔集9』(筑摩書房刊)のなかに、「講演 マンガの歴史から」という文章が収録されていて、鶴見さんの「笑い」ということの考えを知らされました。そこでは、「漫画」を定義して「笑いを誘う画」というふうにしたいと書かれ、「笑いを誘う目的で描かれた画」とされています。
そして、「笑いとは何か」について、「アハハという笑い声のない笑い、笑みとか微笑の両方を含めて考える。そこには一種の二重性があり、それが笑いの幅であり、同時にマンガの幅にもなっている。この二重性、両義性が大変大事なのだ」とあります。
さらに、高笑いと声なき笑いという二つの気分のふり幅があり、それが転化していくのが漫画の表現する気分だというのです。
「窮屈な状態にいる人間がその窮屈な状態そのものを自分で納得いくようにとらえ切ったと思うとき、その人間はその状況を優越する。そしてそのときにある種の笑いが生まれる」とし、そのとき、声なき笑いか、声高な笑いかわからないが笑いが生まれると、「その方法で窮屈な状態のこわばりから生命を回復したとき愉快な気分になる」といいます。
たとえば、暗い森の中を一隊になって人が行進しているとき、なにかざわめきが聞こえてきたりすると誰かが襲ってくるのではないかとすごく緊張する。それがただの風によるものだと分かると、全体に愉快な気分が沸き起こってきて、ワハハと笑うといった具合です。
また、「自分がどうしても逃れることのできないもの、たとえば死ぬことを免れなくなったとき、運命に動かされているボールでもあるように自分を見据えると、そこに一種の諦めというか、微笑があらわれる」。このような高笑いから微笑への振り幅を漫画は効果としてもっているとしています。
こうして鶴見さんの漫画での「笑い」を読んでいて、「微笑」ということに惹かれていきました。そして、私は井上洋治神父の『日本とイエスの顔』(日本キリスト教団出版局刊)に書かれている「第7章 悲愛」のところの一部分を想起していました。
それは「ヨハネ福音書8章1節~11節」の箇所を取り上げている部分です。
井上神父は「朝早く、城塞の外で人々に愛(アガペー)の教えを説いておられたイエスの前に、おそらくは姦通の現場を捕えられてしまったのでしょう、寝巻姿の一人の婦人が、手に大きな石をもった律法学者やパリサイ人たちに口ぎたなく罵られながら引き立てられてきます。後悔と恥ずかしさと恐怖で、その婦人はおそらく顔を上げる勇気もなかったでしょう」と書かれています。
この時代、ユダヤ社会では殺人、偶像崇拝と並んで、姦通は最も重い罪とされています。律法によれば、姦通した男女はともに死刑に処せられることになっていて、旧約聖書のレビ記には次のように記されているのです。
イエスのそばに集まった者たちは、そのモーセの掟によって、婦人に石打ちの刑を科そうと準備していたのです。石打ちの刑とは、広場で罪人に対しみんなで石を投げ、罪人を打ち殺すというユダヤ社会の死刑執行のやり方でした。
井上神父はイエスが置かれた状況を説明しています。
この場面で井上神父はイエスをどのようにとらえているでしょうか。
『あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい。』
人に石を投げること、これはイエスがもっともきらった行為でした。それは悲愛アガペーにもっとも背くことだったからです。
イエスは、婦人に目を向けず、ただ地面に何かを書き続けていた。婦人はうなだれて顔は伏せたままだったでしょう。この描写に、井上神父がイエスに感じる悲愛アガペーが籠められていまます。
井上神父の悲愛アガペーをこの場面で私なりにもう少し感じようとするとき、浮かんでくるのが「微笑」なのです。「今後はもう罪を犯さないように」とイエスが初めて顔を向けて婦人に言ったとき、きっとイエスの目は悲愛に満ち、そこには温顔な微笑みが見られたであろうと思うのです。そして、その顔を見た婦人は、いままでの強張った顔が緩み、身体の全身が赦しを受けた愛に満たされ、言いようのない喜びを感じていたにちがいありません。婦人の目には涙がとめどもなく溢れていたことでしょう。