ジョット『ラザロのよみがえり』
稲川保明(カトリック東京教区司祭)
ジョットは、アッシジの聖フランシスコ大聖堂の大フレスコ画を描いた画家として知られています。若くしてチマブーエにその才能を見出されたジョットは、自然の観察や三次元的奥行によって、今までになかった人体の存在感を表現しています。そして、人間の感情さえ絵画の中に表現するようになりました。このようなことから、後世の人々から、「ルネサンスの父」と呼ばれるようになったのです。
絵画に生命を与えた画家と称されるジョットは、パドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂に、マリアの生涯、キリストの生涯、最後の審判の絵を残し、アッシジの聖フランシスコ大聖堂には、聖フランシスコの生涯を描き、晩年はフィレンツェの大聖堂の主任建築家として、その鐘楼を設計しています。これは「ジョットの鐘楼」と呼ばれ、今でも華麗な姿を見ることができます。
パドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂の作品はジョットの真筆によるもので、アッシジの大聖堂のフレスコ画よりも生き生きとしています。現在、スクロヴェーニ礼拝堂の見学はミラノにあるダヴィンチの『最後の晩餐』と同じく、厳しく温度や湿度が管理されており、15分間に限られていますが、後代の多くの芸術家たちにインスピレーションを与えた作品として一見の価値があります。
【鑑賞のポイント】
(1)ラザロのよみがえりはヨハネ福音書11章に記述されているエピソードです。ここで、いよいよ、ラザロの葬られた墓の前でイエスの神の子としての力と栄光が示されようとしています。厳しい表情でイエスは右手を上げ、「石を取り除きなさい」と命じています。
(2)右側では、墓から出て来たラザロがまだ布によって拘束されており、自由に身動きできません。そしてその顔色や表情も青ざめており、まだ生気がありません(キリストの復活の空の墓には布がおりたたまれていたという記述と対照的です)。
(3)また「もうにおいます。四日もたっていますから」と墓の石の蓋をとりのけることをためらったマルタの言葉の通り、ラザロの後ろに立っている女性たちは、口元を布で覆っています。イエスの足元にひれ伏している二人の女性には頭に光背が描かれており、二人とも同じポーズをしていますが、手前がマルタ、赤い服とベールで髪の毛を覆い隠していないことから妹のマリアであることがわかります。
(4)この絵の中心には、イエスではなく、またよみがえったラザロでもなく、イエスのほうに手を差しのべながら、自分のほほに手をやり、ラザロを見つめている青年のような一人の人物が描かれています。イエスのことばを信じることができなかったと同時に、今、目の前に起っていることを見て、「このお方は一体、どなたなのだろうか? 死者さえもよみがえらせるとは!」と訴えているようなそぶりをしています。
(5)イエスのこの奇跡がユダヤ人たちを恐れさせ、祭司長たちはイエスを殺害することに本気で動き出します。イエスのみ心と人間の思惑の違いが対照的に現れる時でもあります。(第58回ジョルダーノによる『ラザロのよみがえり』とも比べてみてください)