展望としての「ソーシャル・コミュニケーション」


石井祥裕(AMOR編集部)

AMORからの興味

SIGNISとは何か……簡単にいうと、ともに1928年に創設された二つの前身組織、OSIC(国際カトリック映画・視聴覚メディア協議会)とUNDA(国際カトリック・ラジオ・テレビ協議会)とが2001年11月に統合され、新たな名称SIGNISとなった、というのがもっとも基本的なことでしょう。そこから、SIGINSの活動内容には、キリスト教的カトリック的価値観からの放送・映画、視聴覚・映画教育、そして新たにインターネット・メディアがメインテーマとなっている次第が明確です。日本においても、1970年代に二つの前身団体の日本組織が生まれ、日本カトリック映画賞、カトリック教会・修道会などのホームページ制作を支援・促進しているインターネットセミナーが大きな活動となってきていることもわかります。

上述の映画・放送に関する国際的な交流・連携は一つの活発な実例でありますが、社会的なコミュニケーションの形態は、それにだけではないことはもちろんです。19世紀末に登場した映画、20世紀になって登場したラジオやテレビという以前に、たとえば、18世紀から社会の変革の主要なメディアであった新聞・雑誌という形態、そしてより古典的な本の出版ということに関して、カトリック教会には、1927年に創設されたUCIP(国際カトリック出版連盟)という組織があります。出版・新聞・雑誌・報道・通信社に携わるカトリック者の交流・連絡・協力・養成に関する組織です。

どうして、これら出版・雑誌に関することも思い起こしたかというと、SIGNIS JAPANを母体としたSNNの有志活動としてのウェブマガジン「AMOR 陽だまりの丘」は、まぎれもなく紙媒体で発行される雑誌のスタイルをインターネット・メディアに持ち込んでいるという、一種の混合業態ともいえるものだからです。

 

教会の「ソーシャル・コミュニケーション」との取り組み

当然に、AMORとしては、SIGNISの活動領域とともに新聞・雑誌といった近現代のいわば古典的なメディアも含めた、コミュニケーション活動に対するカトリック教会の取り組み全般を学び直すことが重要になってきます。

ということで、ここでやはり想起しなくてはならないのは、現代教会のあり方の始まりに位置する第2バチカン公会議(1962~65)です。この公会議の最初の憲章が1963年の『典礼憲章』であったことはよく知られているかもしれません。その陰であまり目立たないのですが、これと同時に出された最初の文書が実は『広報メディアに関する教令』でした。

この教令の第1項で、「あらゆる種類の情報、思想、教えを容易に伝達するための新たな手段」を、教会は特別な関心をもって受け入れ見守るとし、具体的には「出版、映画、ラジオ、テレビおよびこれに類するもの」を挙げています。教令は、これらの「広報メディア」の正しい用い方に関する規範として考えるところを明示し、カトリック教会のメディアに関する取り組み、関係者の養成、さまざまな実行機関について指示をしているというのが具体的内容で、「広報の日」の制定を勧めています。じっさい1966年には「世界広報の日」が制定され、毎年、教皇メッセージが発信され、この問題領域、教会の使命について啓発しています。

この教令の前史にも興味深いものがあります。20世紀の教皇たちが、1920年代後半からの上述の出版・放送・映画に関する国際的協議会作りをも顧慮しつつ、たとえばピウス11世が1936年の回勅『ヴィギランティ・クーラ』で映画についての勧告を述べ、ついでピウス12世の1957年の回勅『ミランダ・プロルスス』は、映画、ラジオ、テレビに関する諸問題を扱った最初の回勅となりました。第2バチカン公会議の上述の教令に取り込まれる指針がすでに数多く示される画期的な内容であったようです。

第2バチカン公会議の『広報メディアに関する教令』は、この分野での取り組みと奨励・規範の提示という教会の取り組みの一里塚になり、これを踏まえて、1971年には教皇庁広報委員会による司牧指針『コミュニケーションと進歩』(邦訳 南窓社 1974)が出されています。ちょうど半世紀前のことです。そしてこの司牧指針公布20周年を記念して1992年には教皇庁広報評議会より新たな司牧指針『エターティス・ノーヴェ』が出されています。その後、2005年に教皇ヨハネ・パウロ2世が使徒的書簡『休息な発展-広報活動に携わる人々へ』というメッセージを発するなど、教会は社会的コミュニケーションの問題、メディアの問題に一層深く入り込んでいることがわかります。SNSを活用する教皇フランシスコの活動スタイルもまさしくそのことを体現しているというべきかもしれません。

このようなことは、カトリック教会における全般的な動向の目印にすぎず、実際の教会活動、宣教活動におけるメディア活用の実態は、もっと進行しているといえるでしょう。それは、現代人であるキリスト者としての自然な、当然な姿という以上に、キリスト教の本質そのものをよく照らしだしているといえないでしょうか。

 

「広報」という語では見えてこない

ここまで書いてきたことの中で、なにか気になることがなかったでしょうか。それは、現代教会が大きくテーマとして意識するようになったことを表す言葉として、コミュニケーション、メディアといった外来語と並んで、「広報」という語が出てくることです。「世界広報の日」が定着していて不思議に思わないかもしれませんが、なんとなくズレというか違和感を残すような日本語使用であることが気になってしかたがありません。

『広報メディアに関する教令』と訳されている第2バチカン公会議の文書の原語は、広報はコムニカチオ・ソチアリス、メディアはインストルメンタ(道具)です。つまり、「ソーシャル・コミュニケーションの道具に関する教令」というのが直訳です。南山大学監修の従来の邦訳では「広報機関教令」と訳されています。ちなみに、英語では、この道具の部分を「メディア」と訳しているので、最近の司教団公式訳はそれを採用したともいえます。その他の多くの訳でも「手段」とか「道具」というふうに訳しています。それはそれとしてあまり問題はありませんが、「広報」の原語が(英語風にいえば)「ソーシャル・コミュニケーション」であるということにはやや驚きを覚えざるを得ません。

というのは「広報」という日本語は、一般の辞典的解説では、「官公庁・企業・各種団体などが施策や業務内容などを広く一般の人に知らせること、また、その知らせ」(デジタル大辞林より)ということになります。実情にも合っていると思います。一つの小教区教会でも「広報部」というものがある場合、教会の中枢からの施策や活動について広く信徒に告知していく活動のことをさし、そのための印刷物を広報紙とか広報誌というかたちになっています。上意下達とはいわないまでも、中枢部からの一般への発信というニュアンスをもっているものです。これが果たして教会の取り組みの課題となっているソーシャル・コミュニケーションと同じなのでしょうか。

出版・映画・放送などの隆盛を背景にした教会の自覚的推進活動でいわれているところの総称としてのソーシャル・コミュニケーションを「広報」と訳してしまっては、元も子もないというか、たくさんのことが漏れてしまうよう気がしてなりません。「ソーシャル・コミュニケーション」という言葉を外来語として使っていったほうがよいのではないでしょうか。インターネットを通じて、双方向、多方向にコミュニケーションができる時代になっている今、それらを網羅するのには、「広報」という用語はとても追いつかないでしょう。

すでにコミュニケーションという言葉が日本語として定着し、またマスコミという言葉のかわり、今ではソーシャル・コミュニケーションそのものの現実を表現するためにも「メディア」という語が定着しています。部門名称として定着した「広報」を取り替えることが難しい場合は、少なくとも教会の中で使われている場合の「広報」とは社会的コミュニケーション全般のことなのだ、という意識化が必要です。それは、とくに関係諸機関の間での連携や交流がしっくりと展開していかない日本の教会において必要なことかもしれません。

 

すでに息づく「コミュニケーション神学」

コミュニケーションは、21世紀をすでに5分の1を過ぎた現代の教会のメインテーマなのかもしれません。今、SIGNISなどの国際的連携活動や、教皇庁からの指針のうちにおのずと展開されているのは「コミュニケーション」の神学(信仰の立場からのものごとの考え方)であると思います。ここでは深くは展開できませんが、それは、第2バチカン公会議文書でいえば、『典礼憲章』『教会憲章』『啓示憲章』『現代世界憲章』(いずれも略称)と示した展望、いわばディヴァイン・コミュニケーション(メディアトル=仲介者であるキリストによる神と人とのコミュニケーションという展望)と呼応し合っているはずなのです。

こうして、信仰に関する思索そのものがコミュニケーション論的神学になってきているのが現代ともいえます。それは、いわば「はじめにコミュニケーションがあった」という立場から、ロゴス(みことば)も三位一体も福音も教会も秘跡も典礼も考え抜いていくものです。だれもが今はそのように考え、行い、生きているともいえます。第2バチカン公会議の文書の中では、隅っこに置かれていたような『広報メディアに関する教令』、いや『ソーシャル・コミュニケーションのメディアに関する教令』は、今や“隅の親石”となって、キリスト教に関するすべての事象を解く鍵になっているとさえ言えるのではないでしょうか。

そのようなところから、世界と人間についての透徹した見方をはぐくんでいきたい……そんな抱負に至った2021年の始めです。インターネット世界の中でマガジンという不思議な融合体の大きな役割を、まさにこの神学を展開していくこと、育てていくことのうちに見つめながら……。

 

【参考文献】
池田敏雄「『広報機関に関する教令』解説」南山大学監修『新風かおる教会』公会議解説叢書5(中央出版社 1969)625~685ページ
『新カトリック大事典』(研究社)項目「コミュニケーション」「マス・メディア」

 


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