ベネチア国際映画祭で黒沢清監督の『スパイの妻』が銀獅子賞を取ったというニュースがテレビで流れた時、私の中には、“へー”という感想しかわいて出てきませんでした。すでにだいぶ前に見ていた映画を思い出す作業がそこから始まりました。そして思い出したのが、映画を見終わった瞬間、胸の中にわいた気持ちです。それは、なぜ、今の時期にこの作品を監督がとりたかったのかということでした。
1940年、少しずつ戦争の足音が聞こえ始めた頃、聡子(蒼井優)は貿易会社福原物産を営む福原優作(高橋一生)とともに、神戸で瀟洒な洋館で暮らしています。身の回りの世話をするのは駒子(恒松祐里)と執事の金村(みのすけ)。愛する夫とともに夫が趣味の映画撮影に協力し、なんとも優雅な生活を送っていました。
ある日、福原物産に神戸憲兵隊分隊長に任命されてきた津森泰治(東出昌大)がやってきます。優作の仕事仲間であるドラモンドが諜報員の疑いをかけられ、逮捕されたというのです。その情報をすでに知っていた優作は、笑い飛ばしますが、泰治は、幼なじみである聡子のためにも人付き合いを考え直すように勧めます。
ドラモンドが釈放を手助けしてくれた優作のところに礼を述べにやってきます。ドラモンドは、日本を離れ、上海に渡るといいます。
その後、優作は物価の安い満州に甥の文雄(坂東龍汰)旅立ちます。1か月の予定での渡航でしたが、予定より2週間遅れて帰国します。
福原物産の忘年会の日、文雄は、会社を辞め、有馬の旅館「たちばな」に籠もり、戦争をテーマにした長編小説を書くという報告を皆の前でします。忘年会が終わると、優作は聡子に「僕はアメリカへ行くかもしれない」といいます。対日輸出制限が始まり、アメリカが敵国になるのは時間の問題という状況にありました。
憲兵隊本部に呼び出された聡子は、泰治から有馬の旅館「たちばな」で仲居をしていた弘子が殺されたこと、その弘子を満州から連れてきたのは、優作だと告げます。
弘子との関係を疑い、嫉妬心を募らせた聡子は、優作を問い詰めます。それに対して優作は、「やましいことは何もない。僕を信じるのか、信じないのか」と詳細を語らず、反論します。それに対して聡子の返事は「……信じます」でした。
それでも不安な聡子は、有馬の旅館「たちばな」に出向き、弘子を連れ帰った真意を文雄に問い詰めます。人が変わったような文雄は、「あなたには分かりようがない!」といい、「おじさんに“英訳が終わった”とだけ伝言を」と茶封筒を聡子に手渡します。
茶封筒に入っていたのは、人体解剖図と解説が記されたノートでした。それを会社の倉庫にある金庫にしまい、鍵をかけると、ことの顛末を聡子に語ります。
満州では野崎医師(笹野高史)から依頼された薬品を入手するため、関東軍の研究施設に向かったのですが、そこでペストによる死体の山を目撃します。看護師だった弘子から細菌兵器の研究について聞き、この事実を証拠とともに国際政治の場での発表を決心したというのです。
「スパイの妻と罵られるようになっても、それがあなたの正義ですか?」
「不正義の上に成り立つ幸福で君は満足か」
「私は正義よりも幸福をとります」
2人の話し合いは平行線です。優作が不在の時に会社に訪れた聡子は、金庫を開け、入っていたノートとフィルムを持ち出します。自宅でフィルムを映写機にかけると、そこには見るもおぞましい映像が焼き付けられています。
憲兵隊本部を訪れた聡子に、「たちばな」の主人が弘子殺しの犯人だったと泰治は伝えますが、聡子の用件は、優作のもっていたノートを差し出すことでした。
金庫からノートとファイルが盗まれていることに気がついた優作は、憲兵隊に連行されます。文雄がスパイだと拷問の上で自白したと告げられ、優作は釈放されます。
憤る優作に対して、聡子は意に介さず、翻訳したノートと人体実験の記録フィルムを撮りだし、「アメリカへ渡りましょう、私たち二人で」といいます。
二人はやっと同じ位置に立ち、亡命の準備を始めます。さてここからは観てのお楽しみです。二人はうまく亡命できたのでしょうか。ミステリー的要素満点のこの映画、愛を貫くためには誰かを裏切らなければならない。正義、欺瞞、信頼、嫉妬、幸福等々、相反するものに揺られながらすべての国民が同じ方向を向くことを強いられた時代に正義を貫こうとする姿には、感銘を受けます。
なぜ、今この映画なのか、その答えは、映画を見ていただければ、あなた自身の中に見つかると思います。行きにくい時代だからこそ生き抜くとは何かを教えてくれる映画です。
(中村恵里香、ライター)
10月16日(金)より、新宿ピカデリーほか全国ロードショー!
公式ホームページ:https://wos.bitters.co.jp/
監督:黒沢清/脚本:濱口竜介、野原位、黒沢清/音楽:長岡亮介
出演:蒼井優 高橋一生 坂東龍汰 恒松祐里 みのすけ 玄理 東出昌大 笹野高史
配給:ビターズ・エンド
配給協力:『スパイの妻』プロモーションパートナーズ
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