李 春成(スポーツジャーナリスト)
「Sports」の語源は、ラテン語の「Deportare」に求めることができる。中世のイングランドで、おもに貴族たちがたしなんだ行為を「Disport」と呼び、それが時を経て「Sports」に省略されていったという。
「Disport」の接頭語「Dis」は「分離」を意味し、横文字好きの東京都知事が流行らせた「Social Distance」という単語にも含まれる。つまり、「距離をおく」ということだ。また接尾の「Port」には「運ぶ」という意味があり、よく使われる代表的な単語に「Portable」がある。こちらは「手軽に持ち運べる」だが、最近の人には「Handy」や「Mobile」という言葉のほうが馴染みやいのかもしれない。
中世の貴族たちは、常に神経を尖らせておかなければならない日常からしばし離れ、気晴らしとしてたしなむ行為に身を寄せることを「Disport」と呼んだ。
ヨーロッパの映画や歴史ドラマに登場する狐狩り、すなわちハンティングが当時の「Disport」の代表例で、いまや労働者階級から圧倒的に支持されているフットボールも、もともとは支配者階級が始めた「遊び」の一種だった。
東洋にも目を移せば、中国の古代書に「遊」という文字が頻繁に散見でき、その概念は、「あらゆる束縛から解放された自由な心の在り方」だった。
考えてみれば、オリンピックの新種目となったスケートボードやクライミングも、もともとは人間に不可欠な「遊び」から始まり、やはり人間が大好きな「ゲーム」から「競技」へと昇華させていった。筋力を必用としないダーツやチェスまでもが五輪種目として議論されるのも、スポーツそのものの起源をたどれば、まったく理不尽な話でもないわけだ。
ここまでを整理すると、「スポーツ」は自由の象徴であり、それらが行なわれる場所は「非日常空間」ということになる。スタジアムの階段を駆け上がったときに眼前に広がる風景には、日常では味わえない興奮がある。
そして、それぞれのスポーツが普及、発展していくなかで求められていったのが、「ルール」の研究と整備だった。「ルール」とは、競い合う者同士に提供する舞台を平等にするために必要不可欠な、法的ガイドラインだ。ルールがあって、初めてゲームが成立する。
余談だが、世界それぞれの地域の感染状況や医療体制が異なる現在、森喜朗が悲願とするオリンピックの開催は当然、NGである。現時点での回避は疾病対策であることはもちろん、スポーツ的観点から考えても、とうてい「平等な舞台」とはいえないからだ。
さて、いくら「自由を謳歌する」のが「スポーツ」の醍醐味とはいえ、これほどスキャンダルが多い業界も珍しい。それも超有名人たちが、半端ではない醜聞な話で世間を賑わせる。プロスポーツ選手たちは、いわば個人商店に等し
く、腐敗した権力者や経営者のように、巨大な組織の援護を得られにくいという理由もあるのだろう。彼らが犯すミスや悪事は瞬く間に明るみに出され、人びとの関心を強烈に集めてしまう。
自分たちの舞台であり、職場でもある非日常空間のルールから放たれると、現役選手からOBにいたるまで、彼らへの尊敬や憧憬の念を覆すような無法をはたらくスターがいかに多いことか。
日本の例を出そう。
山際淳司の『スローカーブをもう一球』の主人公として知られる江夏豊は、解説者時代の92年、覚醒剤所持で逮捕されている。江夏といえば野球賭博で疑われた時期もあったが、その野球賭博で角界を追放されたのが2010年の貴闘
力だ。また16年には、バドミントンの世界トップランカーである桃田賢斗が闇カジノに出入りしていたことが発覚、五輪強化指定選手から外され、長期間にわたる出場停止処分で謹慎生活を強いられた。
だが、日本人アスリートのこれらの事例も、世界から見ればとるに足らない話だろう。子どもの悪戯レベルにすぎないと言ったら、誇張しすぎだろうか。
大麻の使用が公認されている地域や国もあれば、国内に複数の政府公認カジノを設けている国々も多く、日本のように厳格な規制ラインを敷く国のほうが、むしろ少ないような印象さえもある。
94年、L.A.フリーウェイでロス市警との壮絶なカーチェイス騒動を起こし、その映像が世界中に流されたのが、NFLのスーパースターだったO・J・シンプソンだ。罪状は、元妻と、その友人の殺害だ。覚醒剤や闇賭博とは全く比にならぬ重罪である。
同年の夏にはサッカーのワールド杯アメリカ大会が行なわれているのだが、全米が注目したのは、シンプソン裁判の行方だった。L.A.に隣接するパサデナのローズボールスタジアムで行なわれた決勝で、ロベルト・バッジォ【註1】
がPKを外したとしても、サッカー不毛の地の国民の関心は、プロフットボールの殿堂入りをはたした男の今後だった。
同じく、恋人を射殺したとして13年に逮捕されたのは、北京パラリンピックの陸上競技で、金メダル三冠を達成したオスカー・ピストリウスだ。義足でありながら、ロンドン五輪で健常者との闘いも辞さなかったスーパー・パラリンピアンである。
スポーツ界で犯罪に手を染めるのは、なにもアスリートたちだけではない。
マフィアとの癒着や数え切れぬ汚職、はては乱交パーティにいたるまで、数かずの罪状で告発されたシルヴィオ・ベルルスコーニは、イタリア首相を4期にわたって務めた「犯罪の百貨店」であり、また本田圭佑も在籍したACミランのオーナーでもあった。その豊富な財力でミランの黄金時代を築いたが、首相の座を追われたあとの17年、チャイナマネーのコンソーシアムにミランをまるごと売却してしまうという節操のなさだ。
ミラノ近郊のベルガモでコロナ感染が爆発したのは、その3年後の年明けだった。
古くは89年にMLBから永久追放されたピート・ローズ【註2】の野球賭博、直近では16年に覚醒剤取締法違反で現行犯逮捕された清原一博など、スポーツ界のスーパースターにまつわるスキャンダルは野球選手に集中しているように
も思えるが、日本やアメリカを除けば、“醜聞の横綱”はサッカーにおいてほかにはあるまい。
筆者が少年時代に憧れたのが、マンチェスター・ユナイテッドのジョージ・ベストだった。その華麗なテクニックで相手ディフェンスを翻弄する姿は、世界中のサッカー少年たちを魅了したものだ。68年に史上最年少で「バロンドール」(世界年間MVP)【註3】を受賞したイングランドを代表するスター選手だったが、酒と博打で身を滅ぼして82年に破産、05年に死去している。その悲惨な人生の歩みは、99年に公開された映画『BEST』(邦題:ジョージベスト/伝説のドリブラー)で詳しく描かれている。
95年6月にイングランドで開催された国際親善試合「アンブロカップ」は、加茂周監督率いる日本代表の海外初遠征試合だった。そして、「サッカーの整地」として名高いウェンブリー・スタジアムに乗り込んだ加茂ジャパンを迎え
撃ったのが、ホームのイングランド代表である。
井原正巳が1点を返したあと、盛大な声援を浴びてピッチに入ったポール・ガスコインもまた、ジョージ・ベストと並び称される90年代のスター選手だった。彼の存在感は、その愛称から「ガッザ・マニア」という熱狂的なファンを生み出し、当時の社会現象にもなったほどだ。しかし、そんな彼が70年代のベストとよく比較されたのは、プレースタイルだけではなかった。重度のアルコール依存症を患い、専門施設に入院した経験をもつ。奇行癖があり、暴行や器物破損で何度も警察のやっかいになっている。偉大なプレイヤーだったガッザのピッチ外での姿を、マニアたちにベストを想い起こさせたのだろう。
さて3年前の17年、スペインの最高裁から懲役21ヶ月を宣告されたのが、FCバルセロナの至宝、リオネル・メッシだ。バロンドール6回受賞というキャリアは、クリスティアーノ・ロナウドの5回を上回る史上最高記録である。だ
が、肖像権収入の隠蔽が発覚し、5億円余りの脱税罪に問われている。しかし世界最高峰に君臨する「ラ・プルガ」(メッシの愛称。La Pulga=蚤)【註4】は、この支払いを拒否、彼の投獄を恐れたバルセロナが重加算税を肩代わりするという王様ぶりを披露した。ほかに脱税で告発されたスーパースターたちのなかには、ネイマールやクリスティアーノ・ロナウドらも仲良く肩を並べており、それぞれの脱税額はメッシを超える20億余りというから驚きだ。
17歳になったメッシがバルサのトップチームに昇格した04年、彼とともにチームの黄金時代を築いたのがブラジルが生んだ芸術作品、ロナウジーニョだった。超技巧技で世界を魅了させた彼の末路も、やはりまたひどいものであ
る。
引退直後の15年、ブラジルの環境自然保護区内で違法建設を強行したことが大問題となり、2億6,000万円にのぼる罰金支払いを命じられた。しかし、最後まで裁判所命令に応じようとせ
ず、ブラジル政府からパスポートを没収されてしまう。ところが今年3月、偽造パスポートでパラグァイに入国したことが当局に知られ、あえなく投獄という顛末だ。これに欣喜雀躍したのが、同じ刑務所で刑期を過ごす囚人たちであったことは言うまでもない。ロナウジーニョは、事実上の重婚を公にしており、世界的なファンタジスタの栄光の日々を知るファンたちに美味しい話題を提供し続けている。しかし、この当時の彼の銀行残高は、1,000円にも満たなかったという。まさに、転落の人生である。
そんなロナウジーニョに対して、ある大物が温かいエールを投げかけている。
「ガウショ(愛称)は汚れた犯罪者なんかではない。オレにとっては、かけがえのない友人だよ。パラグァイには、仕事で行っただけなんだ。だが彼の唯一の過ちは、いまだに自分をアイドルだと思い込んでいることだ。」
大物は、天国から地獄へ突き落とされたガウショの姿に、自分の人生を重ね合わせてみたのだろう。
この発言の主はディエゴ・マラドーナ、その人だった──。
(つづく)
【註1】ロベルト・バッジォ
ポニーテールで知られたイタリアのレジェンド。21ゴールを記録したユヴェントス時代の92-93年シーズン、FIFA世界年間最優秀選手とバロンドールをダブル受賞。ワールドカップの決勝史上初のPK戦となった翌94年、最終キッカーとなったバッジォがゴールバー上にふかして敗退、決して前評判が良いとはいえなかったブラジルに4度目の優勝を譲ってしまう。
【註2】ピート・ローズ
63年、シンシナティ・レッズでメジャーデビューをはたして新人王を獲得したほか、最多試合出場、最多安打、200安打最多回数など、MLB史に残る記録男。68年から2年連続ナショナルリーグの首位打者に輝き、3度目の首位打者となった73年にはリーグMVPを受賞、75年ワールドシリーズのMVPにもなっている。モントリオール・エクスポズに移籍した84年、史上二人目の通算4000本安打を達成した。全力でプレーする前向きの姿勢で人気を博したが、監督在任中に野球賭博に関わるという悪質さで永久追放処分を受けた。
【註3】バロンドール
サッカー専門誌『フランス・フットボール』が56年に創設した賞だが、高い権威を誇った。2010年からFIFA最優秀選手賞と統合され、「FIFAバロンドール」として発展的解消、同年から3年連続でメッシが選ばれている。一昨年の18年に受賞したレアル・マドリーのルカ・モドリッチは、メッシとロナウドの二人以外から11年ぶりに選ばれたクロアチア代表MFだった。ここ10年間の世界のサッカーが、メッシとロナウドを中心に動いてきていたことがよくわかる。
【註4】La Pulga
スペイン語で「蚤」を意味するが、蔑称ではない。170㎝という小柄な体格と、ペナルティエリア付近で見せる粘り強いドリブルから付けられた。