鈴木和枝(横浜教区カトリック三島教会)
大学入試が大きく変わる教育改革を目前に、昨年、英語の民間試験の活用や国数の記述式問題の導入が見送られ、入試制度は右往左往。年が明けて、あっという間に新型コロナウイルス感染症の流行という大変な時代となり、日本そして、海外の学校も一斉休校に突入、学校という建物は閉じられていきました。やがて、オンライン授業という新しい授業のスタイルが通信制でもない普通の学校にも誕生し、今は大雨警報が出ている、本来なら休校の日でもネットを介しての授業が展開されています。
そんな2020年、自分が教職に就いたばかりの頃には全く想定しなかったことが2つあります。1つは、他の先生方と同様、オンライン授業を展開することになったこと、もう1つは偶然にも今年、宗教科の免許を取得でき、宗教の授業を担当することになったことです。そんな点からもこの時代の教育について考えていきたいと思います。
まず、教育改革は、大学入試が大きく変わるように報じられていますが、知識偏重型だったと言える日本の教育が、中等教育から高等教育において、もっと思考力を育て、判断力や表現力を子どもたちの中に育てていこうというものなのだと認識しています。授業のあり方も、教師が知識を一方的に教える講義形式から、生徒同士が自分の身につけた知識を使って教え合ったり、また生徒たちが考えたことを発表する場を多く設けて分かち合いを重視したりする、いわゆるアクティブラーニングが盛んになりつつありました。
20世紀に教育を受けた多くの大人なら、知識は努力して暗記して自分のものにしてきたものですが、21世紀に学校教育を受けている若者は、知識はネットなどで簡単に得られるので、力を入れるのは、その知識をどう活用するかであるということです。
先ほど「アクティブラーニングが盛んになりつつありました。」と過去形で書きましたが、感染症対策のため、グループワークなどができない状況が生まれ、またオンライン授業のシステムに特に不慣れだった当初は、知識を教師が伝達する一方通行の授業を展開し、教育改革がキーワードの一つとしていた「対話」からはかけ離れたものになっていました。パソコンのソフトだけでは表現しきれない(化学の授業では、生徒がすらすらベンゼン環を書くのはPCでは難しく)ものも多くあります。
しかし、だからといって教師による一方通行の講義には限界があり、オンライン授業のツール(私の勤務校ではGoogleによるG Suite for Education)を生かしつつ、生徒同士の対話や生徒が作成したプレゼン動画をつかっての分かち合いなど、できることを模索しながら授業の幅というのか枠を広げつつあります。授業というものそのものが、何か単なる一方通行の性質ではなく、生徒の生の声を取り上げては、知識を深め、視野を広げていくはずのものであることに気づかされました。まるで授業とは何か、枠に収まらない性質を持った生き物であるかのように感じられます。
4月から担当している高校1年生の宗教の授業では、キリスト教的な価値観を持って世界や社会とつながるためのJPICについて取り上げていますが、このコロナ禍の中、カトリック司教団による『新型コロナウイルス感染症に苦しむ世界のための祈り』を紹介したり、世界のコロナの感染症の社会、例えば感染症が日本以上に蔓延しているペルーにいる私の友人が伝える当地の悲惨な状況について話したりもしています。そうした授業を受けた生徒たちの感想をみて、自分の教え子ながら感心してしまうのは、誰一人として「自分が罹りませんように」と祈る生徒はいなくて、医療関係者の方々のために祈りたいとか、医療や衛生用品の恩恵にあずかれない状況にいる人たちがなんとか罹りませんようにとか、常に周りの人のことを考えていることです。教師があえて生徒たちに「謙虚に人のことを考えよう」と子どもたちに促さなくても、このコロナ禍は、自然と人を周りの人を大切にするように導いているように思います。
教皇フランシスコは、この感染症が蔓延したこの年、『ラウダート・シ特別年』を宣言し、回勅を考察すると共に、わたしたちの「共通の家」と最も弱い立場にある兄弟姉妹たちの保護に取り組むよう呼びかけられています。感染症の問題、それからこれを書いているここ数日の大雨水害に象徴される気候変動など環境問題、今見えているそうした問題に子どもたちがどう向き合って勉強したらよいのか。この時代の教育に対して、教師への挑戦というべき課題をたくさん感じながらも、考えるべきポイントをたくさんいただけているようにも思います。子どもたちが世界の人々への愛とともに、苦難を乗り越える勇気と知恵、行動力を神様からいただいていくことができるよう祈りながら、これからの時代を生きていく子どもたちにとって必要なものとは何か、考えながらも自転車操業で授業の準備をしている日々です。