外海地方の入口、樫山の聖地 後篇
――赤岳の麓、皇大神宮神社と天福寺
倉田夏樹(立教大学日本学研究所研究員、
南山宗教文化研究所非常勤研究員)
長崎のキリシタン関連の史蹟を歩く時は、
何の目印もないことも多いが、
この樫山の地に関しては、もう一つ、
曹洞宗淵龍山天福寺という、拠点となるありがたい場所がある。
国道202号から樫山集落に入って、
皇大神宮神社の少し手前に天福寺はある。
天福寺は自らを、
323年の間、隠れキリシタンの隠れ蓑の寺として、
共に分ち合い生きてきた寺と紹介している。
天福寺には、福聚寶殿(ふくじゅほうでん)という資料館があり、
その中には、キリシタン資料の展示コーナーがあり、
「隠れキリシタンと天福寺」という貴重な資料を配布している。
天福寺は、元禄元年(1688年)、
佐賀藩深堀の菩提寺七世・天瑞萬奇大和尚が樫山に開山する。
前回の連載で触れたが、
佐賀藩深堀の菩提寺といえは、
元々、バスチャンが寺男をしていた寺である。
寛永17年(1640年)の寺請(檀家)制度の実施に際して、
大村藩は、
承応2年(1653年)に、神浦に真宗・光照寺を、
万治3年(1660年)に、隣の三重に真宗・正林寺を、
飛び領地に建立したのを受け、
佐賀藩も、飛び領地・東樫山に天福寺を建てる。
無論、江戸幕府が各藩に命じた禁教政策の一環である。
江戸時代の檀家数は史料がないようだが、
天福寺は、樫山の村人をキリシタンと知っていながら、
踏絵を強制することもなく、
あえて檀家に受け入れて擁護したと言われている。
宗教的寛容と人の情けがよく伝わる歴史だ。
キリスト教弾圧が中止となった後、
明治8年(1876年)の寺院明細には、565戸の檀家と記録が残っているそうだ。
大正7年(1919年)の『三重郷土史』には、
「明治初年佛国式天主教侵入するに及び檀徒の過半数を奪われ、
該寺は孤城落日の姿也」とある。
「佛国式天主教」。
日本の再宣教は、パリ外国宣教会が嚆矢となったのであるから、
私たちが使わない宗教言語だが、もっともな記述だ。
1879年(明治11年)、この樫山を横目に、
「佛国式天主教坊主」のド・ロ神父が、
外海地方・出津に「侵入」し、死ぬまでその地に留まり、
私財を投じて、村民の貧しさを救うべく献身した。
「該寺は孤城落日」とあるが、
私たちとしては、
今日まで寺を残してきた逞しさをもって、
キリシタン遺物を律儀に遺してくださっていることに感謝だ。
福聚寶殿には、潜伏キリシタンが持っていたメダイやロザリオ、
そして「勢至観音像」というマリア観音が展示されている
勢至観音像は、高さ50センチほどの木像。
元々は、浦上のキリシタンが拝んでいたものとされ、
キリシタン弾圧が苛烈になった浦上三番崩れの頃に、
キリシタンの聖具やマリア観音などの異仏への摘発が厳しくなり、
以前からあった「浦上―外海ルート」を使って、
滑石峠の間道を抜けて、
浦上キリシタンが東樫山まで運んできたのが、
この勢至観音像だと言われている。
前回とりあげた、
東樫山のキリシタン指導者・茂重は、
浦上のキリシタンから聖像などを託されたことで捕らえられ、
牢死することになった。
茂重の墓は、天福寺から南に約450メートルの山中、
東樫山キリシタン墓地にある。
仏教寺院が、キリシタン資料を展示している事例は、
他にも数多くある。
寺請制度で、キリシタンの聖品を、
寺が預かることが多かったためだろう。
お上に密告したり、破却しなかったということなので、
慈悲深い措置だ。
名古屋にある栄国寺(浄土宗)は、
切支丹史蹟博物館を開いていることで知られる。
【参照】http://network2010.org/article/465
2018年に潜伏キリシタン関連の世界遺産が決まった
天草・﨑津では、「崎津三宗教御朱印帖」という
三宗教施設の御朱印が記された三つ折りの御朱印帖を発行し、
禁教時代においても、諸宗教が共生していた歴史を伝えた。
崎津三宗教とは、
崎津諏訪神社、曹洞宗寺院普應軒、カトリック崎津教会で、
崎津教会の御朱印には、「神は慈愛」とある。
まさに、ともに生きられる諸宗教の姿がある。
宗教的寛容のためには、
多少の違和感は感じても、宗教言語の工夫が必要だ。
【参照】https://www.jiji.com/jc/article?k=2019122100339&g=soc
コロナの伝来は、
人間の行動様式を内的なものに変えるとも言われている。
カトリック信徒の文化として、海外の聖地への巡礼があるが、
世界の分断が進み、海外渡航のハードルが上がることも考えられる。
キリシタンの伝承では、
樫山・赤岳に三度参詣すれば、
ローマのサント・エケレンジャ(聖教会)に一度参詣したことになり、
浦上から近い岩屋山に三度参詣すれば、
樫山・赤岳に一度参詣したことになる、と言われている。
浦上キリシタンにとっても樫山・赤岳は霊山であった。
コロナ禍が明けたら、
我らが信仰の父祖、キリシタンにならいて、
遥かなるローマを想い、樫山・赤岳に参詣されたい。
【前篇はこちらです】
外海地方の入口、樫山の聖地 前篇――赤岳の麓、皇大神宮神社と天福寺
たいへん面白く読ませていただきました。
コロナ禍は、かえって私たちとキリシタンの距離を縮め、今の私たちにキリシタンの信仰体験を追体験する機会を与えた、という洞察が興味深いです。
ありがとうございます。