山とわたし


阿部光一(修道士)

わたしが山の魅力に取り憑かれたのは、高校生のときです。変わった学校で、1、2年生は夏休み前、登山合宿がありました。1年の時は奥穂高岳、2年ときは蝶ケ岳に登らされました。両方とも険しい上級者の登山です。苦しい思いをしながら登りましたが、登る途中や頂上からの絶景に、疲れも吹き飛んで、自然の雄大さに感動したことを思い出します。

奥穂高からの夜明け

それからしばらくは高い山にはご無沙汰していましたが、還暦を迎えた今、あらたに近くの山に登っています。月に3回ぐらいは出かけています。大した経験があるわけでもなく、ただ単に年齢だけを積み重ねてきただけですが、最近思うことは山に入るときに「人間は自然というものの一部分なん」だ、と。なので、その自然に対して「どうぞ仲間に加えてください」という思いを抱きながら登っています。景色もさることながら道端に咲く花々、通り過ぎる風、雲や霧など、その中に一体となっていく自分を感じてうれしくなります。それとともに、山はこの地球を創っているのだとも思います。

谷を登り詰めていくといつしか尾根になっていきますが、谷の奥には一筋の水の流れがあり、この水が、山を下ってやがて広い海に流れていきます。広い海もこの一筋の流れから生み出されていくのだと。海の水は蒸発して雲となり、また山に雨を降らせ、浄化される。このサイクルが地球を創っているのだと。近年、自然災害が各地で起こっていますが、もとはといえばこのサイクルを人間が壊してしまった結果ではないかと思うのです。植林はしていますが、ほとんど針葉樹、スギやヒノキです。両方とも人間の生活を豊かにする材料として有益ですが、自然を取り戻すのには足りません。もっと広葉樹、落葉樹を植えなければと思います。

畠山重篤『人の心に木を植える――「森は海の恋人」30年』(講談社、2018年)

山を歩くとわかるのですが、スギやヒノキの山道は暗く、滑りやすく、ごつごつしていて歩きにくいです。雨が降ると地面にしみ込まず、すぐに流れていってしまいます。かえって広葉樹、落葉樹の山道は木漏れ日が差し込み明るく、ふかふかしていて歩きやすいです。雨はすぐには流れず、しみ込んで飽和状態になってから少しずつ流れていきます。川は下流に向かって流れながら土にしみ込んだ栄養分を取り込み、流れ下る場所に栄養を運んでいきます。その栄養は最終的には海に下り、海を豊かにしていきます。ところが、その沿岸に生活する人間の営みがそれを阻んでいき、川の本来の目的が失われてしまいます。いまだにもめている諫早干拓の問題は、それがよくわかる例だと思います。

『人の心に木を植える』(講談社刊)という本、ご存じでしょうか。「森は海の恋人」の合言葉をかかげて、宮城県気仙沼のカキ漁師・畠山重篤さんたちが植林運動をしています。大切にしてきた養殖棚、震災で流されてしまいますが、そんな苦しみを乗り越えて今また養殖を再開しています。植林のおかげで魚たちが戻ってきた、豊かな海が戻ってきたそうです。豊かな海を守るためには、森を守らなければならない――。畠山さんはそう確信したそうです。

山に登りながら、自然からいろいろ教えていただきます。一緒に登る山友と思いを分かちながら、神の創造されたこの自然を愛し、大切にしなければと思うこの頃です。

 


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