わたしの信仰生活日記ー神の存在証明ー(1)希望の歩み


酒井瞳(日本福音ルーテル教会信徒)

1.按手式と聖書研究。

2020年3月20日 、私の所属する日本福音ルーテル教会で、教職受任按手式があった。按手式は、私がその年度に一番お世話になった人が受けることがよくあり、毎年3月には泣きながらその姿を見てきた。というのも、大体チャプレン助手(通称チャプ助)を担うのが神学校の4年生だからである。ルーテル学院大学にはCCC(キャンパスキリスト教センター)という部室のような場所があって、そこでチャプレンやチャプレン助手が週に何回か聖書研究を行う。私はルーテル学院大学に入ってすぐに、洗礼を受ける前もよくCCCに行き、結局大学に在学中はかなりの時間をそこで過ごしたものだ。そこでは、他にも礼拝委員会という組織も活動していて、大学のお昼の礼拝や学内の伝道活動の手伝い・奉仕の仕事も行っていた。チャプレン助手の人から見れば、ただでさえ忙しい最終学年なのに、多くの重荷があり、かなり大変だったと思う。でも、私は聖書研究だけではなく、普段の生活面でも彼らに相当な親近感をいつも感じていた。

聖書研究とは、不思議なものである。センター試験の現代文では選択肢の中には一つしか正解が無いが、聖書というものは特定の重点を守れば無限の適応の可能性がある。もちろん、聖書学というほど厳密に学問的に追求すると、話はまた別かもしれない。しかし私はそこで様々な信仰の形を知り、同時に、礼拝での説教やキリスト教の伝えたいことの多くを学んでいった。私は、何も知らずにいきなり一人で教会に行く人を本当に尊敬する。私はかなりの小心者だし、疑い深い部分もあったが、みんなでお昼に集まってごはんを食べ、学内の礼拝に参加して、聖書を分かち合い、そこから段階を踏んで学外の教会に繋がっていったからだ。「学外の教会」と言うと、学内の教会の方が本当の教会ではないという人も居たが、私にとっては学内の教会も本当の教会であった。日曜日には三鷹教会の主日礼拝に行っているが、例え礼拝がショートバージョンで、学生の証のメッセージが説教のように語られていても、私にとってはCCCの仲間や他の学生、先生たちと共に過ごして生きた、本当の教会だった。

 

2.本当の教会とは?

むしろ、私にとっての「本当の教会」問題は、上智大学に入ってから大きくなった。ルーテル学院大学にいたときはそこまで深く考えなかったし、日本基督教団や福音派教会や聖公会などの青年と会ったり、合宿をしたり、交わりを持つ中では、特に何も感じなかった。しかし、カトリック教会を知る中で改めて直面する課題となった。それは、使徒信条とかニケア信条を持つとか、異端ではないとか、そういうものではない。ある意味ではキリスト論の転換のような、神概念の変化のようにも感じた。イエス・キリストとは何者なのだろう、信仰とは何だろうというものだった。

洗礼を受けたときの私の願いは、信じられないほどの優しさや自由さを持つ人々との出会いを通して、愛とは何なのか本当に知りたい、「この人たちが信じる神を知りたい」という願いだった。おそらく、私は読書や動画や何かを見るだけでは、洗礼を受けたいという気持ちにはたどり着かなかっただろう。ただ知的理解だけでは、私はそこに行かなかっただろう。

カトリック教会では「連続性」が重要視されているが、私の信仰も明らかにその連続性の中から生まれたのではなかったか。私にとってキリスト教は、もっと血の通った実践的なものだった。同時に、今自分自身も将来を見据える中で、より神学を学びたい気持ちもある。信仰と学問は決して乖離しているものではなく、お互いに支え合い、調和の中で成長していくものだ。それは、教派同士の関係についても同じように言えるかもしれない。

 

3.受難と復活。

私にとってこの2020年は人生最大の四旬節である。日本だけではなく、世界においても前代未聞だと思う。よく四旬節には、自分の好きなものや大事なものをその期間だけ「断つ」という。今年の私にとって、それは自分の意志では明らかになくても、 礼拝断ち、ミサ断ち、教会の集会断ちである。そして、この強制的に断たれている中でこそ直面している本当の恐怖は、だんだんと無意識のうちに神から離れているのではないかという危機感である。他者への配慮が足りなくなり、独善的になり、寛容さが足りなくなっている気がする。でも、だからこそ、今悔い改める必要がある上に、ミサや礼拝や聖書研究などの集いの大切さを改めて感じるようになった。

私たちには、ミサや礼拝を行う神父や牧師が必要である。

今この時代、召命や献身の減少がよく言われているが、そのことに対する危機感も改めて見ることとなった。教会の奉仕の役目として、私たちのような信徒にはどうしてもできない部分がある。礼拝や聖餐、ミサや聖体拝領は、私たちにとって必要不可欠なものだと改めて感じている。そして、その普段の当たり前がもはや当たり前でなくなってしまったつらい現実がある。新しい牧師や神父が生まれるこの時期に、なお一層礼拝やミサや集会のある有り難みを感じたい。

この、まるで創世記でノアが方舟の中で嵐が過ぎ去るのを待つように、しかし少しでも被害が広がらずに、雲の中の和解の虹を見ることが出来る日を待ち望んでいる。

 


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