四旬節とアーレント――暗い時代の人々、暗い四旬節の我々


倉田夏樹(南山宗教文化研究所非常勤研究員)

祈れかしわれら罪びとのため
今そして死するときに
祈れかしわれらのため
今そして死するときに

――T.S.エリオット「灰の水曜日」
(Ash- Wednesday)

 

移動祝祭日としての四旬節

移動祝祭日というものがある。聖書にその詳細は書いていないが、灰の水曜日から、復活祭(Easter Sunday)までの不定期の40余日を、カトリック2000年の伝統と信徒たちは四旬節(Quadragesima)と呼ぶ。移動祝祭日なので、四旬節の期間は毎年違ってくる。起源は古く、2世紀に見られる。痛悔と贖罪の聖節で、ミサの祭服は主に紫である。文豪アーネスト・ヘミングウェイの絶筆は、61歳の頃に書いたもので、パリという街自体を移動祝祭日と称した。タイトルはそのまま、『移動祝祭日』(Moveable Feast)で、冒頭に詩を献辞している。

もしきみが幸運にも
青年時代にパリに住んだとすれば、
きみが残りの人生をどこで過そうとも
パリはきみについてまわる。
なぜならパリは移動祝祭日だからだ。

宗教色を感じさせない文豪だが、この作品にもキリスト教を思わせる内容は、まったくと言っていいほど存在しない。ただ、逗留したドイツで文豪は、「黒いキリスト、桜桃酒(キルシュ)を飲む黒いキリスト」と百姓などから呼ばれたようである。

 

四旬節中の出来事

それはさておき、動きまわる、そして生涯ついてまわる移動祝祭日に向けて、カトリック教徒は毎年40日余、イエスの受難をおぼえ四旬節の喪に服してきた。1865年3月17日、浦上のキリシタン・イザベリナ杉本ゆりは大浦天主堂を訪ね、プティジャン神父(のちの日本代牧区司教)に会うが(「信徒発見」/長崎側からは「神父発見」〔水浦久之〕)、その時の有名な言葉「ワタシノ旨アナタトオナジ」の後に続いた言葉は、「カナシミ節ヲスゴシテマス」であったと伝えられている。実に、四旬節中の出来事であった。禁教期にも神父不在の中、約220年の間バスチャンの日繰り(日本人直筆の教会暦)を伝承して信徒共同体による信仰活動が連綿と続けられ、四旬節(カナシミ節)の伝統は、16世紀から連綿と日本でも保持されてきたのだ。アメリカの女性カトリック作家フラナリー・オコナーは「私たちの文化はイエスに取りつかれている」と言った。毎日のミサはイエスの生涯を辿るが、教会暦も一年を通してイエスの生涯を辿る。文化はキリスト教的でも、現代人はいつも、イエスのことを忘れやすいためだ。

大斎(Jejunium)・小斎(Abstinentia)では、肉食・飲酒などを慎み、断食、時には苦行を行い、四旬節の期間中、腹もちさせるために、節制(Temperantia)を語源とする野菜を油で揚げた料理ができたという一説がある。この食文化の方は、カステラ(Castella/城=ケーキの土台)同様、戦国時代以来の日本に受容された。「節制」の文化は近代が近づくにつれて薄まっていくようで、後期中世ヨーロッパ史の各所で腐敗した教会の姿が登場する。カルヴァン派などプロテスタントの多くの派は、四旬節の伝統を簡素化し、最後の一週のみを受難週として迎える。

40はユダヤの完全数で、旧約聖書において、イサクやエサウが結婚した年齢、ダビデ、ソロモン、サウルが王位にあった年数、ノアの洪水の日数である。四旬節の40は、イスラエルの民モーセ、イエスの予型(τύπος / typos)とされるエリヤが荒野を放浪した年数、新約聖書において、イエスが"霊"によって導かれ荒野で断食した日数、復活後イエスが顕現した日数を意味すると言われている(聖グレゴリウス・マグヌス教皇、教会博士)。教会ではイエスを追体験して、信徒も節制・謹慎する。謹慎(あるいは不謹慎)の仕方は人それぞれであるが、今年の場合は特別で、強制的に誰もが謹慎・蟄居を余儀なくされる四旬節を過ごしているのではないだろうか。2020年。生涯忘れられない四旬節になるだろう。

戦間期を生き延び、自らをアングロ・カトリックと称した詩人のT.S.エリオットは、しきりに詩文に白骨を描き出して死を想起させたが、四旬節では、灰が死を意味し、自らがやがて灰に至る不条理を再認識し、イエスの受難と復活を追体験させる。四旬節は、「汝塵なればこそ塵に皈(かえ)るべきなり」(創世記3:19)を唱える灰の水曜日(Ash- Wednesday)に始まり、最終週の聖週間には、枝(プロテスタントでは棕櫚)の主日(Palm Sunday)に聖堂で渡される枝を家に持ち帰り、聖木曜日(Maundy Thursday)に罪びとの足を洗い、聖金曜日(Good Friday)に断食を行い、聖土曜日(Black Saturday)には黒い祭壇布が取り外され、翌日、移動祝祭日である復活祭を迎える。

四旬節中の今年のアメリカでは、大統領選前半の山場・超火曜日(Super Tuesday) を迎えた。超火曜日は、アメリカでは日曜日が安息日で、月曜日に投票を行うと、遠方の投票所にたどり着けない者がいることで火曜日にされた措置だが、実は、教会的な暦と言える。2020年の超火曜日には、ユダヤ人候補バーニー・サンダースが予想に反し苦戦した。聖週間中の4月8日(水曜日)、コロナ禍で選挙活動ができないこともあり、サンダースは大統領選から撤退すると報道された。

 

ハンナ・アーレントの受難

ハンナ・アーレント

さて、アーレントについてである。

戦後ついにアルゼンチン南部でイスラエル特務機関モサドに捕らえられたアイヒマンは、イェルサレムで裁判を受け、多くのユダヤ人たちから断罪を受ける中、糾弾すべき「ドイツ人という集合体」は存在しない、あるのは具体の個であり、あるのはアイヒマンという凡庸たる悪である、とアーレントは言い放って、ほとんどの同胞ユダヤ人から大顰蹙をかった。ユダヤ人の集団的大勢に、ヒステリックに迎合することをしなかった。凡庸たる悪は1962年、数百万人に及ぶユダヤ人虐殺の罪で極刑に処された。アーレントの『イェルサレムのアイヒマン』(Eichmann in Jerusalem)は1963年に書かれる。こちらも、同胞から大いに非難された。

 

『暗い時代の人々』の二人

受難と言えば受難だが、戦後の1968年に、アーレントは『暗い時代の人々』(Men in dark times)という著作で十人の知識人の生き様を書く。「政治的大動乱と道徳的災厄とに満ちていながら、芸術と科学とにおいては驚異的な発展をとげた20世紀前半の世界を分ちあっている」十人だ。その中から、二人を紹介する。

 

(1)カール・ヤスパース

妻がユダヤ人であったこともあり、当時のドイツ知識人としては珍しくナチ権力に抗して大学を追われた哲学者ヤスパースについては二編ほど書くが、結果としてナチス・ヒトラーに絡めとられる形になった大哲学者ハイデガーについては、かつて愛人として敬慕したにも関わらず、書いてはいない。

ヤスパース夫妻

マールブルクでハイデガーとの関係が破局を迎えたアーレントは、1926年、ヤスパースが教えるハイデルベルクに発つ。1929年、ヤスパースの指導のもとで哲学博士の学位(博士論文「アウグスチヌスにおける愛の概念」)を得る。その後アーレントは、ナチスの全権委任法が成立した1933年にドイツを去りパリに滞在し、収容所を経験した後、マルセイユ、リスボンを経由してアメリカに渡る。ヤスパースの方も1937年、妻ゲルトルートがユダヤ人であることを理由にハイデルベルク大学を免職される。戦後は、戦争責任問題でドイツと折り合いが悪くなり、1948年にスイス・バーゼルへ亡命する。アーレントとヤスパースは、長い期間、往復書簡を行っていたことで知られるが、ヤスパースが果敢に時代と対峙する姿勢に大変信頼感を持っており、「ヤスパースがこれらの時代の決定的な出来事に反撥したやりかたは、自分自身の哲学のなかに退却することでも、世界を無視することでも、あるいは憂鬱におちいることによってでもありません」と評価し、「ヤスパースによってこの領域(政治哲学)へと導かれた」とアーレントは言う。アーレントの現実政治に対して忌憚なくものを言う哲学は、ヤスパースの路線と言える。

 

(2)アンジェロ・ジュゼッペ・ロンカーリ

聖ヨハネ23世教皇

アーレントがとり上げるもう一人は、意外ながらアンジェロ・ジュゼッペ・ロンカーリというイタリアの人物で、私たちの呼び方で言うと、聖ヨハネ23世教皇である。非キリスト教徒のアーレントは「カトリック教会が、唯一の野心がナザレのイエスを模倣することであるような少数の人々を高い地位に任命するのをためらうのは理解し難いことではない」としながら、バチカンで会った部屋係女中の「この教皇はほんもののキリスト教徒です。どうしてそうなれたのでしょう? それに、ほんもののキリスト教徒がサン・ピエトロに坐られるなどということがどうして起こったのでしょう?」という言葉で聖ヨハネ23世教皇の人物像を表わす。1965年にニューヨークで出版された教皇の著書『魂の記録』(Journal of soul)を、「一ページ一ページが、如何にして善となり、悪を避けるかについての基礎的教科書」と呼ぶ。ブルガリア、イスタンブール、パリと赴任した聖ヨハネ23世教皇(当時ロンカーリ)は、戦時中にはトルコでユダヤ人組織と接触し、ナチス占領地域から逃れてきた数百のユダヤ人児童のドイツ送還を阻止したりもした。アイヒマンはユダヤ人数百万を殺したが、ロンカーリはユダヤ人数百人を救った。こうしたコスモポリタン教皇の集大成として、教会の現代化(aggiornamento)と、諸宗教対話とエキュメニカル運動の地平を拓いた1962~65年の第二バチカン公会議開催がある。聖ヨハネ23世教皇は、プロテスタントを「教会の外部にいる憐れで不運な人々」とみることをやめて、「洗礼を受けていると否とにかかわらず、すべての人間はイエスに帰属する権利を持つ」と確信し、第二バチカン公会議のオブザーバーに、20世紀を代表するカルヴァン派の大神学者カール・バルトを招待する。バルトは高齢(公会議開会当時76歳)を理由に誘いを辞退し(この時期バルトはカトリックが強いミュンスター大学で聖トマス・アクイナスを研究しカトリック的知性に傾倒しており、そのことをかなり周囲が懸念していたこともあるだろう)、代わりにパリ・ソルボンヌ大学のルター派神学者オスカー・クルマンを紹介し、クルマンが第二バチカン公会議に参加した。

 

今日の日本における四旬節中の出来事

日本の現実に目を転ずると、未だ教皇訪日後の喜びムードの残照が照らす中、突如新型コロナウイルスという試練が現れた様相だ。まさに四旬節中の受難と重なって見え、我々もまた、四旬節にあるコロナショック下の「暗い時代の人々」と言えよう。しかし、コロナ到来がもう一年早かったら、私たちにとって「明るい時代」だった教皇訪日はどうなっていただろうか。

また今年の日本は、「キリスト教国」によって、前回の10月から8月に移動させられた「世界規模の大移動祝祭日」も予定されていたが、こちらは文字通りさらに再移動(延期)となった。「平和の祭典」というのはその内容ではなく、平和があって初めて開催可能な祭典のことと思わされた。その前後、テレビからあふれてきた言葉でめずらしく興味深かったのは麻生太郎副総理の言葉で、「1940年の東京、1980年のモスクワ、五輪は40年刻みで…」というものがあった。その後5~11年で国家が崩壊していることに気づく。「平和の祭典」、地球から数万規模で人口が減り続ける現下では到底行うことはできない。

 

人口を失う時代

『人口論』(An essay on the principle of population)で知られる経済学者マルサスは、人口減少の要件として、戦争、飢饉、自然界の激動に加えて、疾病を挙げている。また、新型コロナ禍の前後で巨視的歴史家マクニールの『疫病と世界史』を手にとったが、14世紀のペストもまた、中国が震源で、中央アジアを通って北イタリア・ロンバルディア地方を中心に猛威を振るったとあった。歴史は確かに繰り返す。マルサスは、近代経済学者ケインズに影響を与え、ケインズをして『マルサス伝』(Robert Malthus : in Essays in Biographies)を書かしめ、ダーウィンに進化論まで準備させたが、元々は英国国教会(聖公会)の執事(Deacon/カトリックで言う助祭)を志したほど、信心が熱心だ。「神にたいするおそれは、きわめてただしく英知のはじまりといわれるが、英知のおわりは神にたいする愛であり、道徳的善の賞賛である」と『人口論』にある。

幼い時から家庭は啓蒙思想の家で、ルソーもヒュームもマルサス邸を訪れた。マルサスのデビュー作は「危機」(The Crisis : a View of the Recent Interesting State of Great Britain by a Friend to the Constitution)というパンフレットだったが出版されなかった。マルサスは、『人口論』最終章でこう締めくくる。

害悪が世界に存在するのは、絶望をうむためではなく、活動をうむためである。
(中略)害悪を除去することに最大の努力をつくすことは、(中略)創造者の意志を実行するようにおもわれる。

 

コロナ禍に際しては排外主義に陥らず人類の叡知の結集を

国際関係では、共通の仮想敵を作ることで同盟二国は親密な信頼関係を作るという(ニコルソン)。敵が人間であれば洒落にならない戦争に陥るが、ウイルスを具体敵として、国内では挙党一致し、諸国が叡知を結集して力を携え、共闘することができれば、「事実は小説より奇なり」(詩人バイロン)ではないが、昨今よく読まれるカミュの『ペスト』がそうだったように、人々が協力して人類の敵を乗り越える新しい「再生の物語」が生まれるのではないか。艱難を耐え抜いてこそ物語は残る。

新型コロナウイルスに際しては、「正しく怖れる」ことが肝要だ。衛生に気をつけ無闇に出歩かず感染を防御することが基本だが、ウイルスに対する過度な怖れは、排外主義と差別感情、殊に特定の民族憎悪を誘発する。流言飛語(デマ)とパニックにも気をつけられたい。アーレントに倣うならば、「ユダヤ人(あるいは、97年前の「朝鮮人」)は井戸に毒を」投げ込んではいないし、「ウイルスを拡散した中国人(あるいは、イタリア人)」という集合体はどこにもいやしない。祖国再興のため、各所で働く中国人/イタリア人の個人がいるはずだ。また「天譴論」(天罰論)に傾倒してもならない。東日本大震災の際の東北地方と同様、中国やイタリア、2日間で3000人の死者を出したフランスに格別の罪があったわけではない。理神論的な自由人でカトリック教会からは随分嫌がられたが、詩人ヴォルテールの「リスボンは、快楽にふけるロンドンやパリよりも多くの悪徳をもったというのか。リスボンは壊滅し、パリでは踊っているのだ」(「リスボン地震の詩」)の精神に学びたい。

 

「コロナショック・ドクトリン」

中国人ではなく、疑心暗鬼に陥り、見えない敵を憎み差別する自らの感情こそ敵であろう。人々の混乱につけこんで、時には戦略的に数多く乱造される陰謀論は、疑心暗鬼の心理を利用する。さらに、惨事に便乗して行われる強権的政治である「ショック・ドクトリン」(ナオミ・クライン)にも注視したい。コロナショックで世が乱れる中、3月26日、突如、最高裁判所で争われていた米軍普天間飛行場の移設に伴う辺野古の新基地建設を巡る辺野古訴訟が結審し、最高裁は沖縄県側の上告を棄却し、沖縄県の敗訴が決まった。今後さらなる辺野古基地の再軍備が予期される(参照:「琉球新報」https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1096529.html)。この出来事は「時のしるし」に見える。「コロナショック・ドクトリン」(コロナ惨事便乗型強権政治)である。人々の活動と思考が鈍磨し、メディアが機能しにくい時期を狙って「蛮行」を行う狡猾なしかけだ。今後も行われるだろう。目を醒ましておきたい。コロナを「正しく怖れる」ための一助として、WHOの公式サイトに毎日届くSituation Reportsも参照されたい。冷静になって、日本を含む各国の一日の死者数、累計の死者数を見ると参考になる(参照:「WHO」https://www.who.int/emergencies/diseases/novel-coronavirus-2019/situation-reports)。

 

おわりに――アーレントの思い出

以上、今回は四旬節(Lent)をテーマに、キリスト教の周縁をなぞるように、一見キリスト教とはさして関連がなさそうな人物の著作と生き様からキリスト教の輪郭を描いてみようと終始した。「現代の知識人は数世代にわたって、無神論者――すなわち、人間の知りえないことを知っているふりをする愚かもの――でないかぎり、キェルケゴール、ドストエーフスキー、ニーチェ、さらには実存主義陣営の内外にいるかれらの無数の後継者に数えられて、宗教と神学上の諸問題に『興味』を見出してきた」とアーレントは表現する。アーレントに触れたのは他でもないが、大学時代の思い出がある。当時、大学にはさしてアクティヴな知性は見られず、私自身も文学部の「純粋な」古典学徒として、複雑怪奇で目まぐるしく万事流動する現代社会の事象(下部構造)にはできるだけ触れないで、不動の確固たる文献研究(形而上学)に沈潜していきたいと思っていた。そんな折に、韓国から著名なプロテスタントの政治哲学者が母校にやってきて、戦時中には当時留学生の詩人尹東柱(ユンドンジュ)も訪れた夜のチャペルで講演を行った。かつて韓国民主化運動の際に、「T・K生」というペンネームを用い、岩波書店の『世界』誌で日本に発信したことで知られる、池明観(チミョングァン)さんだった。内容はさして覚えていないのだが、ご老人に見え、あまり流暢でない日本語で、しかし情熱的に政治哲学について語った。特にアーレントについて熱弁されていた。日本の冷淡荒涼なアカデミズムの様子とはだいぶ違うなと思った。すぐにアーレントに傾倒した、というわけでは決してなかったが、アーレントのことは、ずっと頭に残った。20世紀哲学では、「ヤスパース―アーレント―池明観」の基軸線が私の中に随分あるように思う。また大学時代のある時のこと、この時期はよく覚えている。2001年の秋だった。9.11に際して、学科が外部から講師を招いて、この現代史的出来事を論じてもらった。講師は、パリから来たカトリック者の文化史家・竹下節子さんだった。内容は、これまたあまり覚えていないのだが、現実政治に対峙する学知の姿勢だけは覚えている。話の内容より案外、人の姿勢の方が記憶に残ることは教育においてよくあることかもしれないが、その後、二人の講師に大きな影響を受けたため、では全くなく、自分なりの紆余曲折を経て、自らで決定した通りに大学院に進み、学部時代とは違った趣の文献研究に沈降する毎日が続いた。二人の講師とは、その後仕事で再会することになる。

新型コロナウイルスの脅威に際して、市井の我々にできる活動は少ない。地域によっては聖週間の(復活祭含む)公開ミサも行われない。今年の我々の「四旬節」(カナシミ節)はきっと40余日よりも長い。人々の「復活祭」もはるか先のことになるだろう。籠城をしいられる今、あえて中世の生活様式に立ち戻り、城に溜まっている古い書物を繙き、「電気を通した」テレビやインターネットからはパニックをもたらすデマゴーグや、「指導者」が吐き出す恣意的で空虚な言葉があふれる中、それらのスイッチを一旦オフにし、嵐が過ぎた日に再び立ち上がるための「生の」物語と言葉を探し、「幻(日記)を書き記す」(ハバクク2:2)時かもしれない。「祈りかつ休む」勇気も必要だ。

 

【参照した本】
ハンナ・アーレント著、大久保和郎訳『イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』みすず書房、1969年
ハンナ・アレント著、阿部齊訳『暗い時代の人々』ちくま学芸文庫、2005年
マルティーヌ・レイボヴィッチ著、合田正人訳『ユダヤ女 ハンナ・アーレント――経験・政治・歴史』法政大学出版局、2008年
マルサス著、永井義雄訳『人口論』中公文庫、1973年
ウィリアム・H・マクニール著、佐々木昭夫訳『疫病と世界史 上下』中公文庫、2007年
T.S.エリオット著、岩崎宗治訳『四つの四重奏』岩波文庫、2011年
アーネスト・ヘミングウェイ著、福田陸太郎訳『移動祝祭日』土曜社、2016年
古川隆久著『皇紀・万博・オリンピック――皇室ブランドと経済発展』中公新書、1998年
ナオミ・クライン著、幾島幸子、村上由見子訳『ショック・ドクトリン――惨事便乗型資本主義の正体を暴く 上下』岩波書店、2011年
池明観著『現代に生きる思想――ハンナ・アレントと共に』新教出版社、1989年
英隆一朗著『黙示録から現代を読み解く』女子パウロ会、2020年
J.D.クロッサン/M.J.ボーグ著、浅野淳博訳『イエス最後の一週間――マルコ福音書による受難物語』教文館、2008年
エーバーハルト・ブッシュ著、小川圭治訳『カール・バルトの生涯1886-1968』新教出版社、1989年
バルト/トゥルナイゼン著、井上良雄訳『聖金曜日』新教新書、1962年
ヴォルテール著、中川信訳『寛容論』中公文庫、2011年
水浦久之著『神父発見』聖母文庫、1992年
ヨハネ二十三世著、石川康輔訳『魂の日記』ドン・ボスコ社、2000年
土屋吉正著『暦とキリスト教』オリエンス宗教研究所、1982年
『旧約新約聖書大事典』教文館、1989年

 


四旬節とアーレント――暗い時代の人々、暗い四旬節の我々” への1件のフィードバック

  1. 情報は欲しいけれど、心乱され苦しくなる毎日です。冷静に見極める目と知識、なにがあろうと差別や排外主義に加担せず、不正義にはNO!と言い続ける。ウィルスがヒトのコントロール下におかれるまで…孤独を感じても負けない。
    そんな決意を新たにしました。
    私は凡庸な悪人になりたくない。
    ✝️復活された主とてもに

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