私の教会:日本聖公会


市原信太郎(日本聖公会司祭)

教会にお見えになる方々は、それまでの人生の過程の中で、何らかの形での教会・キリスト教との接触を持っておられることがほとんどです。人間はすでに自分の中にあるモデルと比較しながら新しいことを理解しようとする、という考え方に立てば、その接触の経験を元に私たちの教会の特徴を説明する方が、抵抗なく入っていくだろうと思います。その点で、今回の教皇来日が日本の人々にある種の「スタンダード」を与えてくださったことは大きなことです。この意味をすべてのクリスチャンが理解し、その上に立って自分たちのそれぞれの教会を自己定義していくならば、それは日本におけるキリスト教受容のための大切な働きとなるのではないでしょうか。こういう観点から、私の属する「聖公会」という教派について述べたいと思います。

聖公会は、端的に言えばイギリス(イングランド)の「国教会」から世界中に広がった教会ですが、一般の方にはほとんど教派として知られていないと思います。一方で、立教という学校や、聖路加国際病院などはご存じの方も多いので、まずそこから入ることになるでしょう。また、「アングリカン・コミュニオン」という世界聖公会の交わりの中で、イギリスの王室との関係もありますので、そういったところ(「ロイヤル・ウェディング」など)を「フック」として用いることもあります。

よく、「この教会はカトリックですかプロテスタントですか」と聞かれるのですが、聖公会の独特なところは、ローマ教皇の元にないという意味ではプロテスタントでありつつ、教義や礼拝などの教会の伝統・習慣においてはカトリック的要素を色濃く残しており、しばしば「カトリックとプロテスタントの中間」と呼ばれるところです。これは、例えば「主教・司祭・執事」(カトリックでは「司教・司祭・助祭」)という「三聖職位」を大切にしているというような、我々内部の人間にとって重要なことがらよりも、礼拝で着用する式服や礼拝の所作などが、他のプロテスタント教会に比較するとカトリック教会に近いというあたりでまず認識されるでしょう。新しく教会に来られた方には、教会の成り立ちを説明するのに、しばしば教会建築や儀式・服装の説明などを利用しています。

「国教会」という出発点が、「信仰信条などの共通の思想に同意する人の教会」というよりも、「地域全体を配慮する責任を担う」教会という考え方につながっていることは、例えば南アフリカでの反アパルトヘイト闘争において、聖公会のツツ大主教が大きな役割を果たしたことなどを例に挙げられるでしょう。そして、思想信条でメンバーを選ばない「国教会」であるがゆえに、教会内にさまざまな考え方の人々が共存しているという意味で「中道」の教会と言われていることも、(「国王が離婚してできた教会」という程度の知識で「思考停止」になっている方々に)しばしば語らせていただいているところです。

イングランド国教会・カンタベリー大聖堂

聖公会がカトリック教会のような全世界的に統一された組織ではなく、基本的に国単位の「管区」で独立して運営されていることが、聖公会の考える教会像と密接に関連しているという点は、聖公会の教会理解にとって重要です。聖公会の考える地上の教会は、神の完全な教会である「普遍の教会」の、ある地域・ある時代における一つの具現化・現実化であり、聖公会もその一部です。そしてどの教会も、自分たちだけで完全であることができないがゆえに、わたしたちは「神の普遍の教会」に連なるものとして、お互いへの関心を失ってはならないのです。これが聖公会にとってのエキュメニズムの動機の一つです。カトリックとプロテスタントは互いに激しく罵り合っている、というイメージが今でも世間の方々に根強く残っており、それが日本における宣教の妨げになっていることを、私たちは真剣に反省しなければなりません。この教皇来日を機に、私たちが互いを必要とし、共に神の働きを担いあうものであることを改めて感謝し、大切に受けとめたいと思います。

 

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