閉祭の歌の不思議
答五郎 こんにちは。ついこの間、教皇フランシスコが日本にやって来て、長崎、広島、東京でさまざまなイベント、そして長崎と東京でミサがあったね。
問次郎 はい、自分はライブ配信で見ていたのですが、感動しました。
美沙 私も、です。日本であれだけの人が集まったミサであることも印象深かったのですが、なによりも、教皇ミサもやはりミサであることにいちばん感動しました!
答五郎 ほう! それはどういうことかな。
美沙 教皇だからといって特別な式典になるのではなく、これまで見学参加して見知っているミサと何も変わらないということです。
問次郎 そうかな、さまざまな言語で行われていたという点は特色なのでは?
美沙 もちろんその面は特色がありますが、それは大規模なインターナショナル・ミサだからであって、それでも、やはりミサだということが大事だと思いました。その司式者として、あのご高齢の教皇様が奉仕している姿に感動したのです。
答五郎 そうか。そうだね。ミサにおられるキリストにお仕えする姿だったね。みんなに挨拶しているときのあのすばらしい笑顔と打って変わって、ミサの間は粛々と祈りに専心しておられたね。あのようなミサから、ミサの素晴らしさをあらためて感じてくれていたのなら、よかったな。それはともかく、今回のテーマは「閉祭の歌」なのだけれど、ふだん、どんな印象をもっているかな?
問次郎 ミサの終わりに必ず歌われているものという印象です。これまで見学参加したなかで、どこの教会でも、閉祭の歌はありますから。
答五郎 私も同じ印象だ。黙想会などの小グループのミサでは、ないことが普通だけれどね。ところで、ミサの式次第を見てみると、閉祭の歌のところはどうなっているかな。
美沙 はい、見ているのですが、記載がないですね。「退堂」とあるだけで。
答五郎 そうなのだよ。自分もミサの式次第の勉強を始めて、初めて閉祭の歌が式次第に規定されたものではないということに気づいて、ずいぶん驚いたものだよ。
問次郎 こんなに一般に行われているのに、式次第で定められていないというのはどういうことなのでしょう? 逆に、式次第で規定されていないのに、こんなに歌われているのはどうしてなのでしょうか。
答五郎 これについてはいろいろな推論や議論があるみたいで、自分も確定的なことはいえないのだけれど、一つにミサ典礼書の総則の文章が参照されている。読んでもらえるかな。
美沙 はい、総則90、閉祭についてのc)ですね。「散会-各人がともに神を賛美し、たたえながら、自分の仕事に戻るよう、会衆は助祭あるいは司祭によって解散される」。
答五郎 そう、そこの「各人がともに神を賛美し、たたえながら、自分の仕事に戻るよう」という部分に、いわゆる「閉祭の歌」の概念が含まれているのではないかと解釈できるというのだよ。
問次郎 たしかにそうですね。「賛美し、たたえる」ことは歌を含んでいるともいえますね。
美沙 そう思います。よかったです。しっかりと含まれますね。「ともに」という点を表現するのも一同の歌の役割ですからね。
答五郎 すんなりと受け入れられる解釈のようだね。やはり総則はミサを行う共同体のさまざまな規模を想定してもいるようなので、あえて細かくこの部分は規定していないのかもしれない。小グループでのミサの場合、とくに歌わずに静かに退出するだけでも、各人が心の中で神への賛美の気持ちをもって日常へと戻っていくなら、それも、総則の趣旨に沿うことなのだろうね。
問次郎 今、この閉祭のところの総則を見ても思うのですが、閉祭はずいぶんあっさりしていますね。
答五郎 それは、大切な気づきだと思うよ。ローマ典礼はもともと最後の部分があまりごたごたしていないという傾向がある。ただ、昔(第2バチカン公会議後の刷新の前)は、終わりの福音といって、ヨハネ福音書1章の朗読が置かれていたことはあったようだ。ただ元来の姿は、あっさりとしていたようだ。現在でも、荘厳な祝福が伴われる場合がときどきあるけれど、それとても、そんなに長々と行われるわけではない。実は、そこには、あまり気づかれていないミサの一つの秘密があるようにも思う。
問次郎 えっ、なんですか? 思わせぶりですね!
答五郎 それはね。ミサはそもそも全体が歌だということさ。
問次郎 はぁ? どういうことですか?
答五郎 「歌」と書かれているような、賛歌、つまり一同が歌う歌だけでなく、司式者が唱える祈願も、司式者と会衆のやりとりも、本来は、ただ朗読なのではなく、「朗唱」という、簡素な旋律に乗せて発声する歌だということさ。「唱える」ということはつまり「うたう」こととよくいわれる。
美沙 それは、今でも部分的にそうですね。全体をそうする司祭は少ない感じがしますが。
答五郎 ほんとうは、すべてに旋律がついているよ。そして、最後の部分の「行きましょう~、主の平和のうち~に~♪」~「神~に~感~謝♪」というやりとり、壮大なミサという賛美と感謝の歌が締めくくりなのだよ。ほんとうはこれで十分に感動があるものだよ。もう何もいらないほどにね。
問次郎 つまり、ミサが歌われるものでなく、ただ式文が読まれるだけのものとなっていたときに、会衆の歌を盛り込むための一つのポイントとして閉祭の歌があったということでしょうか。
答五郎 あくまで個人的な推測なのだけれど、ミサが唱えられるだけと思われれば、それだけ歌へのニーズが高かったということではないのかな。
問次郎 ですかね、それでも、ミサの余韻を味わいながら、その中で、心を一つにして、「さあ、主に派遣されていこう!」という感じを歌で表現したいものなのではないでしょうか。
答五郎 今の意見は、とても大事だと思うよ。しばしば、そのミサの意味、その日の福音と響き合う、歌がしっかりと選ばれていたら、一致のうちにある派遣という意味合いが出てくるからね。つまりは歌の選び方が大事だということさ。
美沙 それに、もっと、それにふさわしい歌がたくさんあったらいいのにと思います。
答五郎 式次第で規定されていない分、ミサと生活を結びつけるという意味で、閉祭の歌、派遣の歌といったらいいのかな、これは大事な、そして面白い課題になるという気がするね。
さて、次回は、これまでの流れをもう一度振り返りながら、必要なことを補っていくことにしよう。
(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)