『典礼音楽の転換点』 ⑤ パレストリーナ


齋藤克弘

 現在、正式名称では小教区と呼ばれる教会では、オルガン、聖歌隊、詩編先唱者など、聖歌の奉仕に係わる人はほとんどが一般信徒ですし、わたしたちが音楽で習う多くの作曲家も演奏家もほとんどが信徒ですが、グレゴリオ聖歌やそのあとの時代には、信徒が典礼音楽の演奏に係わることはほとんどなかった、というと正確さに欠けるかもしれませんが、歴史に残っている典礼音楽作品の作詞者や作曲者、演奏者の多くが修道者や教役者(聖職者)という時代が長く存在しました。このように書くと信じられないかもしれませんが、特に、グレゴリオ聖歌やその後のオルガヌムなどはこのような人々しか携わることができなかったのです。

なぜそういう時代が続いたかを少しお話したいと思います。グレゴリオ聖歌の歴史のところでもお話ししたように、カロリング朝フランク王国のガリア聖歌とローマの聖歌が融合してできたものです。その後、ようやく楽譜が発明されたことは、このシリーズの最初でも書きました。わたくしたちは、楽器ショップや書店はもちろん、インターネットのサイトでも楽譜を注文したりあるいはダウンロードして印刷することができますが、当時はそういうものは一切ありませんでした。というよりも、わたくしたちが使っている、植物の繊維を原料とした紙というものが存在しなかったのです。では、初期の楽譜は何にか書かれていたかというと「羊皮紙」という性格には家畜の皮を材料としたものに書いたのです。さらに現在のように印刷技術はありませんから、楽譜を書くのはすべて人の手作業で、おそらくは専門の修道士などがすでに書かれている楽譜から、できる限り正確に写して、しかもきれいな装飾を施しながら楽譜を作っていきました。これは、楽譜ばかりではなく、朗読するための聖書も同じで、この時代の聖書や楽譜などには、美しい挿絵が書かれたものが数多くあります。

このような聖書や楽譜を専門の修道士が一つひとつ手書きで作っていくわけですから、一冊作るにもかなりの時間(数か月以上)がかかったことと思います。また材料が家畜の皮ですから、家畜を食用として屠った後でしか作れませんから(病気で死んだ家畜の皮は傷んでいるので使えなかったようです)、それほどたくさん作ることはできませんでした。しかも家畜を飼うといっても、飼料も現在のように大量に生産して家畜に与えられたわけではありません。せいぜい放牧に毛が生えた程度。ですから、羊皮紙は大変貴重で高価なものだったわけで、小さな町や村の教会(小教区)が手に入れることは、おそらく不可能だったと思われます。参考までに14世紀には法律の専門書が現在の価格で、1冊400万円したとのことですから、いかに高価だったかが想像できると思います。

このような貴重で高価な羊皮紙に書かれた楽譜は、修道院にあってもだれもがおいそれと見ることができなかったことは想像に難くありませんね。おそらく普段は当時としては最良の保存状態を保つことができた図書館に保存してあり、練習の時にていねいに扱われて出してきて、修道士たちが練習を終えるとまた図書館にしまわれた。修道院の周りにあった村の人々も、巡礼に修道院を訪れた人たちも、目にすることができたかどうか。ヨーロッパでもようやく12世紀から13世紀にかけて、イスラム世界を通して中国から伝播した植物由来による紙の生産が始まりますが、この時代でもまだまだ紙は高価でした。

さて、このように楽譜を作ることができたのは、やはり財力がある修道院や大都市の司教座聖堂などでしたので、楽譜に曲を残すことができたのもそのようなところで音楽活動に携わっていた作曲家だったということがわかると思います。また、このような修道院や大聖堂には貴族や領主が多額の寄付をしていました。さらには、貴族や領主の宮廷にも礼拝堂が作られるようになり、このような時代に名を遺した作曲家たちは、いずれも修道院や司教座聖堂、宮廷礼拝堂の司祭などの教役者だったのですが、こういうことは音楽史ではなかなか触れられません。

そのような時代を経て、1450年ドイツでグーテンベルクが活版印刷の機械を発明すると23年後の1473年には楽譜が印刷されるようになり、まだまだ高価とはいえ、印刷物や楽譜は多くの人が手に入れることができるようになっていきました。そればかりではなく、材質が羊皮紙から紙になったことで、本や楽譜を容易に持ち運ぶこともできるようになりました。

このような紙の普及は時代にさまざまな変化をもたらしましたが、中でも大きかったのは宗教改革における聖書の普及でしょうか。ルターが聖書をドイツ語に翻訳しても、羊皮紙の時代だったら人々はおいそれと聖書を買うことはできなかったでしょう。もう一つ、楽譜が普及するようになったということは、修道者や教役者以外の人々も楽譜を手に入れて演奏できるようになったということです。それは、演奏者ばかりでなく作曲する人々もどうようで、自分たちの作った曲をある程度の財力があれば、楽譜にすることができるようになったのです。それまで、修道者や教役者しかいなかった教会音楽の作曲者の中で、初めて一般信徒として輝かしい足跡を残した人物、それがジョバンニ・ピエルルイージ・ダ・パレストリーナです。パレストリーナは彼の生まれ故郷の地名で、ジョバンニ(ヨハネ)が名前、ピエルルイージが苗字、つまり、パレストリーナ出身のジョバンニ・ピエルルイージさんというところですが、通称パレストリーナと呼ばれています。1525年頃パレストリーナに生まれたジョバンニは12歳の時にはローマのサンタ・マリア・マジョーレ大聖堂の聖歌隊員として名簿に載せられています。その後郷里の大聖堂のオルガン奏者となりましたが、彼の生まれ故郷の司教だった教皇ユリウス3世によってローマに呼ばれ、紆余曲折がありましたが、最終的にはサン・ピエトロ大聖堂の楽長を務めました。対抗宗教改革後の聖歌集編纂の委員にも任命されましたが、政治的な理由によってメンバーから外されたようです。

ジョバンニは同じ主題が順番に様々な声部で歌われる対位法の作曲に優れ、以後の時代の模範とされるようになりました。先にも挙げた対抗宗教改革の後のカトリック教会の音楽では、多くのすぐれた作品を残し、現代のヨーロッパ音楽に至る音楽の土台を築いたことから「教会音楽の父」とも呼ばれてます。

教会音楽の活動は、それまで主流を占めてきた修道者や教役者から、一般信徒に活躍の場が移っていき、バロック時代以降は特に有名な作曲家が活躍するようになります。その意味でも、ジョバンニ・ピエルルイージ・ダ・パレストリーナは「教会音楽の父」というばかりではなく、広く多くの人が教会音楽に携わるきっかけとなった、「多くの人の教会音楽の父」と言い換えることができると思います。

(典礼音楽研究家)


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