日本型キリスト教私塾の系譜――日本人にとってキリスト教とは何か


倉田夏樹

前近代の日本人にとっての教育と言えば、まず寺子屋を思い出すのではないだろうか。読み書き算盤の手習い、「江戸時代における日本人の識字率は他地域と比類なきほどに高かった」の類の言説は、実証を待たずして日本人に共有されている情緒的な「教養」であろう。武士階級だけでなく庶民、様々な身分の子どもたちが集まっていたことが特筆されうる寺子屋の他には、武士階級の子弟が通う藩校と、学問を修めた武士が後進の教育のため家で開く私塾が知られる。この図式は日本人にとって案外根強く、読者の中にも、朝から公立学校(かつての藩校)に行き、放課後は予備校や塾(私塾)に通い、家に帰るのはいつも夜になるほど研鑽に励まれた方がいるのではないだろうか。

本稿では、幕末・明治維新初期以降の藩校・私塾という教育機関に着眼しながら、日本人にとってのキリスト教について概観・考察してみたい。幕末維新以後の藩校・私塾は、大きくキリスト教と関わっていたからだ。

フルベッキ写真(上野彦馬撮影)

 

長崎のフルベッキ塾(佐賀藩の藩校・致遠館)

フルベッキ(Guido Herman Fridolin Verbeck, 1830-1898)というオランダ人のキリスト教宣教師がいる。1859年(安政6年)に、米国の改革派教会(プロテスタント・カルヴァン派)から派遣され来日した。弱冠29歳だった。この人は複雑なバックグラウンドがある人で、オランダ改革派(Dutch Reformed)と言っても元々はモラヴィア兄弟団(ルター派とカルヴァン派の両面を含むチェコのプロテスタント一派、チェコの宗教改革者ヤン・フスの流れ)で、名前もフェルベーク、ヴァーベックなど多様に発音されるが、本邦ではフルベッキという日本式カタカナで安定している。

日本へは上海経由で1859年11月7日に長崎に到着する。先発隊として日本にいたS.R.ブラウン(オランダ改革派宣教師)夫妻、D.B.シモンズ(オランダ改革派医療宣教師)夫妻の後を追って、長崎では、到着していた宣教師J.リギンズ(米国聖公会)とC.M.ウィリアムズ(米国聖公会、立教大学創設者)に迎えられた。来日第一信(1860年1月14日付)で、在ニューヨークの神学博士アイザック・フェリス宛にこう書いている。

長崎は、わたしが見たどこよりも自然美のあらゆる要素を備えています。自然美についで、その重要な点は、この港は日本の諸方からの船がはいって来、ここから道路が八方に広がり四方にのびているし、その道路の中には、旅行と輸送の要路にあたるところもあります。それによって、ほとんど三世紀にわたり、商品や産物が帝国のあらゆる地から、この港に流入していたのです

(高谷道男編訳『フルベッキ書簡集』22~23頁)

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何とも郷土人のこころをくすぐられるような「サービス記述」であるが、長崎ではカトリックが多いせいか、このフルベッキのことをあまり知らない。長崎には今も、生後すぐ長崎で亡くなったフルベッキの長女エンマ・ジャポニカが眠っている。

再宣教のカトリックの方では、プロテスタント勢より少し遅れて1863年(文久3年)に、パリ外国宣教会のフューレ神父(Louis-Theodore Furet, 1816-1900)が長崎に到着。翌1864年(文久4年)、プティジャン神父(Bernard-Thadée Petitjean, 1829-1884)が長崎に到着する。その翌年の1865年(慶應元年)3月17日に、大浦天主堂での「信徒発見」があるわけだ。

プロテスタント先発、カトリック後発(再宣教)となる日本本土近代キリスト教史であるが、ここにはカトリックとプロテスタントという問題のほか、帝国主義の世界情勢下におけるラテン諸国とアングロ・サクソン諸国という図式がある。白人はこの対立図式を世界各地に持ち込み、おぞましいほどの略奪と植民地支配、戦争を行い、その複雑きわまる図式ごと引っ提げてキリスト教は日本に再びやってきた。そしてこの時代は、世界の覇権をすっかりWASP(白人・アングロ・サクソン・プロテスタント)が掌握している時代だ。

話が広がってしまった。冒頭の「フルベッキ写真」に話を戻そう。真ん中に宣教師らしき白人が、隣に白人の子ども(先述のエンマ・ジャポニカ説もある)がいて、その周りを眼光鋭い大勢の青年サムライ達が「日本における写真の祖」上野彦馬のカメラを睨みつけている大変ユニークな写真だ。これは「フルベッキ塾」、フルベッキが英語講師を務めた佐賀藩藩校・致遠館での一齣と言われる。写真は、岩倉具視、勝海舟、高杉晋作、大久保利通、江藤新平、大隈重信、副島種臣、坂本龍馬、桂小五郎、伊藤博文、大村益次郎らが映っていると言われる人気の写真だ。

「佐賀藩藩校」という言い回しがまた紛らわしいのだが、佐賀にある佐賀藩の藩校は弘道館である。当時、長崎に居留する外国人の移動は長崎内に限られていたので、佐賀藩が碩学(知恵袋)のフルベッキに英学・外事を教わるために長崎に設立した藩校が致遠館(ちえんかん)なのである。これにちなんで、佐賀県立致遠館中学校・高等学校(現佐賀市)というものがある。さらに余談だが、著者は致遠館の跡地(現長崎市)のすぐ近くで幼少期を過ごし、この致遠館の石碑の字を見て育った。

致遠館の跡地(長崎市五島町)、長崎駅から南に徒歩5分

禁教下であるので、フルベッキは藩校では語学教師であり、1862年から自宅で聖書研究会(バイブルクラス)を始める。致遠館には、フルベッキ写真を見ての通り、佐賀藩士以外も広く集まっており、明治初期の西国雄藩連合(特に、薩摩、長州、土佐、肥前)の関係の端緒がすでにここにある。ちなみに、薩長土肥の「肥」は佐賀藩である。致遠館の塾生だった大隈重信は、現代では早稲田大学の創設者として有名である。大隈はフルベッキの講義を聞いてキリスト教に関心を持ち、致遠館(フルベッキ塾)をモデルとして早稲田大学(当時・東京専門学校)を設立し、早稲田大学のキャンパス端には教会堂まで建てた(現在の日本基督教団早稲田教会の流れに連なる)。一方、慶應義塾を開いた中津藩士(大分県)・福沢諭吉は、アメリカでユニテリアン派の宣教師のお世話になったことがあり、日吉の慶應義塾には建築家W・メレル・ヴォーリズ建築のチャペルが今も残る。

また、「フルベッキが教えた長崎の学校」というのもいろいろ紛らわしく、確かにフルベッキは長崎にある佐賀藩校・致遠館で教えたが、当初は1858年(安政5年)に、幕府が天領(江戸幕府直轄地)長崎に、英語通詞養成のために設立した長崎英語伝習所(英学所、洋学所、済美館、広運館などと名称変更)で英語を教えていた講師であった。長崎英語伝習所の教え子には、何礼之、立石斧次郎のほか、薩摩藩士でのちの元帥陸軍大将・大山巌がいたと言われている。さらに余儀ながら、著者の出身高校(公立)の前身がこの長崎英語伝習所であるので、フルベッキにはご縁を感じてきた。

またフルベッキは、1868年(明治元年)6月11日、佐賀藩士・大隈重信に対して日本のグランドデザインを示した「ブリーフスケッチ」(Brief Sketch)を書き送ったことでも知られる。ブリーフスケッチは、簡潔な素描といった意味だが、かなり長文の建白書(意見書)である。そこには、欧米各国に使節を派遣して、各国との友好を深め条約を改正すること、欧米の政治、司法、外交、教育、宗教、制度、行政、政策を研究すること、信教の自由を実現すること、などが含まれていた。明治政府は、これらすべてを実行する。明治維新からわずか3年後の1871年(明治4年)に、雄藩の猛者ばかりを集めた岩倉使節団が相当の予算をつけて欧米を歴訪することに、なぜこんなに時期が早いのだろうかと思った読者もいるかもしれないが、このブリーフスケッチが一枚かんでいるかもしれない。信教の自由とは言えないまでも、留守政府下において(筆頭参議西郷隆盛)、1873年(明治6年)、キリスト教弾圧の中止が閣議決定された(明治六年政変の一つ)。法的に信教の自由(キリスト教解禁)が保証されるのは、大日本帝国憲法が制定される1889年(明治22年)を待つことになる。大日本帝国憲法の起草者の一人に、長崎英語伝習所でフルベッキに師事した長崎出身の伊東巳代治(みよじ)がいる(苗字にも注目されたい)。フルベッキにどのような思惑があったのかはわからないが、何とも迅速に明治政府(留守政府)はこのブリーフスケッチ通りに、日本をデザインしたわけである。

組織論の興味深いところは、こうした図式は大変な保守性を持っていて、時代が変わってもあまり変わらないところである。このブリーフスケッチの現代版が、今も存在する。ともに知日派アメリカ人と言われる、軍人で元国務長官のリチャード・アーミテージと国際政治学者で元国防次官補ジョセフ・ナイとの共同執筆とされる「アーミテージ・ナイレポート」(Armitage-Nye Report)である。次々のバージョンアップされ、現在第4次の「アーミテージ・ナイレポート」が米国から出されていて、なんとネット上に全文があり、誰でもダウンロードして読むことができる。ご関心があればご一読を。

【参照】 center for strategic & international studies.
https://www.csis.org/analysis/more-important-ever

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ブリーフスケッチと同じで、もっとも、これらには何らの法的拘束力もなければ、国際法上禁止されている内政干渉をするはずもない。しかしながら、外圧に弱い日本人の精神構造は同じである。その視点から、この2つのレポートを見てみるのも興味深い。フルベッキの名前を見るたびに、この「アーミテージ・ナイレポート」のことを思い出す。

 

横浜のヘボン塾

ヘボンについては思い出がある。ヘボン(James Cartis Hepburn, 1815-1911)は、ヘップバーンを日本人式にカタカナにした固有名詞で、1859年(安政6年)に44歳で来日した米国人の長老派(こちらも、カルヴァン派)宣教師だが、ヘボンは現在、「ヘボン式ローマ字」で広く日本人で知られる。このヘボン式のローマ字表記法は、成立から130年以上経った今日の日本における最大シェアを占める表記法である。あれだけ価値観をひっくり返したあの大戦をも乗り越えたわけである。同時に彼は旧新約聖書を和訳し、その聖書はヘボン訳聖書と呼ばれる。

私事だがある時、40歳で亡くなった同業者(雑誌編集者〔当時〕)に頼み事をされたことがある。亡くなる3年ほど前であった。それは、「ヘボン訳聖書のヨハネ福音書を読みたいから、何とか手に入らないか」ということだった。彼が私に何か頼むことは珍しいので、当時は手に入りにくかったヘボン式聖書だったが、母校(キリスト教系大学)の図書館で何とか手に入れ、複写を彼に送った。彼は喜んでいた。ヘボン訳聖書ヨハネ福音書冒頭にこうある。

元始(はじめ)に言霊(ことだま)あり

(ヘボン訳聖書新約聖書 約翰(ヨハネ)傳1:1)

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彼はこれを見たかったのだそうだ。彼は教会で洗礼を受けた「キリスト教徒」ではなく、むしろ教会とキリスト教徒(クリスチャン)に躓いた経験があるらしく、教会については、「頼むから放っておいてくれ」「牧会的暴力」と、倫理学を脩(おさ)めた彼らしい的確で精緻な言葉で表していた。この「聖書」が役に立っただろうか。近年、このヘボン訳聖書は単行本化されたので、簡単に読むことができる。

略歴は他に譲るが、ヘボンは、ヘボン式ローマ字という「言霊」を今も日本人に遺している。そして旧約を含めた聖書を訳し、日本人に託したのが大事業だ。和英辞典『和英語林集成』(1867年)を編纂し、この辞典第3版(1886年)のローマ字表記法が、「ヘボン式」である。ヘボンはアフリカの喜望峰廻りで、香港、上海を経由して、1859年に長崎に到着。1863年には、横浜の自宅で家塾を開き、こちらも禁教下であるため「洋学」を教えた。通称ヘボン塾である。ヘボンの本業は医師で、私塾では、ヘボンが医学を教え、妻クララが英語を教えた。のちに、その女子部がフェリス女学院、男子部が明治学院となった。1891年、明治学院を子弟の牧師・井深梶之助に譲渡し、1892年、77歳の時、妻クララの病気によりアメリカに戻り、その後96歳まで生きる。日本の近代化と福音宣教に尽力した生涯だった。

ヘボン門下生としてヘボン塾にかかわった有名人物としては、仙台藩士の高橋是清が挙げられる。のちに日銀総裁、蔵相になるが、二・二六事件で暗殺される。他にも、三井財閥の益田孝、のちの軍医総監三宅秀、外交官の林董、教育者石本三十郎、牧師服部綾雄がいた。産官学宗に後進を遺し、これら俊英たちのネットワークにより、東京・銀座に以後日本プロテスタントの一拠点となる土地が設けられる。

 

東京のネラン塾

さて、問題は現代だ。フルベッキもヘボンも昔ばなしだ。そしてプロテスタントである。昔語りに終始してはいけない。現代に翻ってカトリックの事象を考えてみると、どうしてもジョルジュ・ネラン神父のことが想起された。ネラン神父は、1920年リヨン生まれのフランス人カトリック宣教師。主に東京で働いた神父で、教会には「35歳・非信徒・男性」が来ないことを受け、彼らが集まる場所である新宿・歌舞伎町にスナックバー・エポペ(épopéeは叙事詩の意味だが、本人は「美しい冒険」と呼んだ)を開いた異色の神父としてよく知られる。

フランスの名門サンシール陸軍士官学校(École Spéciale Militaire de Saint-Cyr)出身で、晩年も声が大きかったことをよく覚えている。「ブルボン王朝の血を継ぐ」という話も聞いたことがある。ごく近年、2011年3月24日に帰天した。あの「3.11」の直後であることを覚えておきたい。近親者から、東日本大震災のテレビ映像を見て、涙を流していたと聞いた。

ネラン神父は、1950年に司祭に叙階。同年、マルセイユ港で、日本から来た遠藤周作、井上洋治神学生、三雲昴・夏生兄弟(学者)を迎えている。1952年には、ネラン神父は宣教師として来日する。あまり言われないが、日本におけるネラン神父の最初の着任地は、またもやの長崎である(本稿3度目の任地)。船に乗って五島に司牧に行ったほか、軍艦島(長崎市)にあったカトリック端島教会に赴任する話もあったという。しかし、ネラン神父本人が言うには、「自分は宣教師」。99人の「司牧」をするよりも、まだキリストを知らない1人に「宣教」をしたいと、東京大司教区への異動を申し出て受理される。長崎は家が代々カトリックの信徒ばかりがいる「司牧地」であり、東京は、戦後の混乱の中キリストを探す求道者がいる「宣教地」であった。ちょうどその頃、東京には遠藤周作がおり、芥川賞をとった時期だったという。本人は「30歳で叙階、60歳でバーテンダーに、今は90歳。自分の人生は30年刻み」と言っていた。

新天地の東京、御茶ノ水で1962~66年に、主に大学生相手に開いていた私塾がネラン塾である。その後、真生会館の理事長を務めるなど多彩だが、元々、フランスでは世界的な神学者として知られていた。ネラン塾門下生からは、司祭になった人や、各分野で活躍している人を輩出している。ものを書く知識人としては、ネラン塾出身というわけではないが、結果としてマルセイユ港で迎えた遠藤周作と井上洋治神父を育んだのではないかと思われる。現在こうした日本のカトリシズムの流れは、井上神父の門下生たちに受け継がれているようだ。

ジョルジュ・ネラン神父の遺作『何をおいても聖書を読みなさい』

この稿を書いている筆者は、ネラン神父の最晩年(亡くなる6ヶ月ほど前)にインタビューをさせていただく僥倖に恵まれた(その内容は、ジョルジュ・ネラン著『何をおいても聖書を読みなさい』254頁以下「新宿・歌舞伎町の雑踏から見たイエスの宣教」に所収)。

そこでは、前述した「35歳・非信徒・男性」への宣教が重要であること、「これからは信徒の時代」「宣教学は、求道者から始めなければならない」「カトリックやプロテスタントの違いなどというのは非常にくだらない」といった内容が語られた。その時のネラン神父の言葉に「私にとってのイエス・キリストとは、描(えが)きのルオー」というものがあった。「描き」というのは、ネラン神父特有の言い回しで「画家」ということで、ルオーはフランス語発音で認知しにくかったが、ジョルジュ・ルオー(神父と同じ名前!)であると、すぐに分かった。しかしこのことが何を意味するか、まだよく分からないでいる。この意味の含み(Implication [アンプリカシオン])を、今後じっくり考えていきたいと思う。

現代と言っても、ネラン塾もまた、少し前の時代の出来事だろう。「現代に生きるキリスト教私塾」とは何だろうか。昨年2018年8月19日、國井健宏神父(御受難修道会)が亡くなった。國井神父は、一般の信徒、求道者あるいは非信徒向けに「十字路の会」と称してキリスト教講座(聖書・典礼)を修道院で週に1回行っており、筆者も末席を汚させていただいた。ミサと夕食をともにする習わしだった。ミサは、茶室として使われていた和室で、茶道の器を用いてミサ聖餐が行われ、潜伏キリシタン時代の追体験をさせていただいたような感覚であった。國井神父は中世哲学を専攻していた京都大学の学生時代、京都を拠点に「心のともしび運動」を行ったジェームス・ハヤット神父に出会い司祭を志し、以後ドイツ留学などの経験を踏まえ、高度な知性に基づいた神学講義が行われていた。典礼学の先生らしく歌も大変上手で、ラテン語のグレゴリオ聖歌を皆で歌ったこともあった。京大生時代、『文藝春秋』を小脇に抱えたドナルド・キーンともよくすれ違ったとも話していた。先日、そのドナルド・キーンも鬼籍に入った。十字路の会も國井神父の帰天でなくなり、東京の修道院も閉鎖され、これも過去の話となってしまった。

現代にも、読者の周りに「今を生きるキリスト教私塾」はあるはずだ。現代人は依然として孤独な状況下にあるが、一方でコミュニティや、ドイツの社会学者フェルディナンド・テンニースの言うゲゼルシャフト(利益社会)ではなくゲマインシャフト(共同社会、人間社会)の復権、サードプレイス(家と職場などではない第三の居場所)の見直し、アソシエーション(たすけあいのグループ)の必要性、などが再検討されている時代だ。東京では、信濃町にある真生会館(カトリック東京教区)が「私塾」としての拠点になっているほか、四谷のイグナチオ教会(麹町教会)でも、「ミッション2030」(英隆一朗神父)の一環として、若者が集まる「私塾」が形成されている。

「日本的なるものとは何か」という問いに対して、本稿では正面きって書いては来なかったが、「日本的なるもの」とは何も、どちらもフランス人が好みそうな「ワビ・サビ」の伝統芸能だけでもなければ、「KAWAII(カワイイ)」のクールジャパンの類(サブカル、アニメ、ゲーム)だけでもないように思う。古風な文化をまとう教会が、流行りものの後追いや模倣、二番煎じに執心することは、コストがかかる上にすぐに古くなるので手間もかかりそうだ。教会及びキリスト教のストロングポイントは、レトロなところではないだろうか。教会堂には、「万能」なスマホはオフにして入るものだ。電話に愛を求めるのは少々くるしい。

昨今の教会では、信徒の高年齢化や司祭の召し出しの不足ばかりが叫ばれるが、日本のカトリック教会には、人、箱物(教会堂)、情報、ネットワークがすでにあるわけだ。教会が人格交流のある共助的なサードプレイスになれるかどうか、というところに今後の日本キリスト教の未来が懸かっているように思う。「日本的なるもの」とは、誤解を恐れず言えば、「人格交流のある共助」に基づく人の育成(教育)ではなかっただろうか。寺子屋―藩校―私塾などといった3機関で教育を行ってきた国はあまり聞かない。教会学校、あるいはキリスト教入門講座もまた、私塾であろう。たしかに日本ではあまりキリスト教徒は増えなかったかもしれないが、キリスト教私塾と藩校で育った「キリスト教系知識人」が近代日本を建設した。日本の教育は、いつの間にか「人格交流のある共助」を失い、そして1つの尺度のみで人を評価する新自由主義(点数、偏差値、所持金)と、それに伴う過度な競争により、すっかり本来の力を失ってしまったように見える。それを一番早く復権できるのは、公教育のしばりがない私塾(あるいはキリスト私塾としての教会)ではないだろうか。教育(宣教)という「人格交流のある共助」によって日本型キリスト教は根を張り、どんな乱世も難局も乗り越えてきたのだから。

(南山宗教文化研究所非常勤研究員)

【参考文献】
『日本キリスト教歴史大事典』 教文館、1988年
沖田行司『日本人をつくった教育――寺子屋・私塾・藩校』 大巧社、2000年
石川松太郎『藩校と寺子屋』 教育社、1978年
奈良本辰也『日本の私塾』 角川文庫、1974年
明治学院人物列伝研究会『明治学院人物列伝ーー近代日本のもうひとつの道』 新教出版社、1998年
高谷道男編訳『フルベッキ書簡集』 新教出版社、1978年
J.C. ヘボン、S.R. ブラウン、奥野昌綱著、久米三千雄編・校注
『元始に言霊あり―新約聖書約翰傳全』 和訳聖書分冊刊行会、2015年
ジョルジュ・ネラン『何をおいても聖書を読みなさい』 南窓社、2016年
レイ・オルデンバーグ著、忠平美幸訳『サードプレイス―― コミュニティの核になる「とびきり居心地よい場所」』 みすず書房、2013年

 


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