ミサはなかなか面白い 71 ミサの中の「主の祈り」


ミサの中の「主の祈り」

答五郎 やぁ。「交わりの儀」に入って、前回はまず「交わりの儀」という呼び名に注目したね。かつては聖体拝領の部とも呼ばれていたところだが、ただ尊いものを自分が拝領する、受け取る、というだけでなく、ほかにも意味があったね。

 

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問次郎 そこで、キリストの聖体によってキリスト者の共同体が生まれるところという意味があったと学びましたね。

 

 

答五郎 そう。なかなか心に残る言葉だったので感動したが、すでにキリスト者の共同体があって、ミサに集まって聖体を受けるわけだがら、そこで「生まれる」というのは、正確には「たえず新たにされる」という意味で考えるべきだろうね。

 

 

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問次郎 その「交わりの儀」の最初に「主の祈り」が来るわけですが。

 

 

答五郎 「主の祈り」のことは、もう知っているだろう。

 

 

 

女の子_うきわ

美沙 はい。キリスト教の代表的な祈りで、イエス自身が教えてくれたもので、教会では大切にされています。何かの集まりでも、では最初に「主の祈り」から始めましょうといって始まるのが慣例のようです。

 

 

答五郎 そうだね。ちなみに、イエスが弟子たちに教えたこの祈りの本文は、新約聖書で二つの箇所で伝わっている。一つはマタイ6章9節~13節、もう一つはルカ11章2節~4 節だ。教会生活で受け継がれている「主の祈り」はマタイの本文に従うものとなっている。

 

女の子_うきわ

美沙 「天におられるわたしたちの父よ……」。マタイに従っているのですね。

 

 

答五郎 今「天におられる……」と唱えたけれど、自分が洗礼を受けたときには、「天にましますわれららの父よ……」という文語体で、これは日本のカトリック教会でずっと親しまれてきた形だった。2000年に日本聖公会と共通の本文になって、以来、「天におられる……」となったのだよ。

 

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問次郎 ミサで主の祈りが唱えられるのは、昔からなのですか。

 

 

答五郎 「主の祈り」自体は、キリスト者の生活の中で唱えられる基本の祈りで、信条や十戒とともにキリスト教の教えやその心を要約している短い本文の一つとして、宣教や信仰教育でとっても大事にされてきた。入信式の準備の中で「主の祈り」を授けられることが、信条を授けられることとともに、キリスト者として認められるしるしになるからね。

 

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問次郎 ところで、ミサでは……?

 

 

答五郎 そうだった。ミサの聖体拝領の部分との関連で「主の祈り」が唱えられるようになるのは、ミサという典礼祭儀の全体像が確立してくる4世紀後半あたりらしい。

 

 

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問次郎 「わたしたちの日ごとの糧をきょうもお与えください」という部分がやはり聖体と関連づけられていたのでしょうか。

 

 

答五郎 たしかにそうだろう。ところで、細かくいうと、ローマ典礼のミサが形成される過程で、当初、主の祈りは、聖体拝領の直前に唱えられていたらしい。それを今のように奉献文のすぐあとに移したのは、教皇グレゴリウス1世(在位年590 ~604)だったという。

 

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問次郎 そんなに前から奉献文のあと、という位置づけになったのですね。

 

 

答五郎 そこで意識されるようになったのは、「主の祈り」の中に奉献文での賛美や願いが引き継がれているという関係だ。とくに初めの「み名が聖とされますように。み国が来ますように。み心が天に行われるとおり 地にも行われますように」というところ。そんなふうに味わったことは、あまりなかったのではないかな。一つひとつ照らし合わせて味わってみたらいいだろうね。

 

女の子_うきわ

美沙 それは深いですね。そう考えると、「主の祈り」は、少なくとも奉献から聖体による交わり、そして派遣されて再び向かっていく祈りでもあるのですね。

 

 

答五郎 そうだね。自分なんか長い間、「主の祈り」のところに来ると、奉献文の長い沈黙のあと、ようやく声を出せるところに来て、「ガッテン!」という気持ちで唱えていたよ。ミサの流れの中での意味まで考えるようになったのはしばらくしてからだった……。

 

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問次郎 今、信徒が声を出す祈りと言われましたけれど、昔はラテン語で行われていて、日本語でしかも信者たちが声を出すところはなかったと聞きましたが……。

 

 

答五郎 そうそう、第2バチカン公会議前のミサでの「主の祈り」から、現代のミサで新しくなっているところを確認しておこう。ミサの総則でね。美沙さん、頼む。

 

 

女の子_うきわ

美沙  81ですね。「主の祈りでは、キリスト信者にとってはとりわけ聖体のパンも暗示されている日々の糧を求め、また、罪から清められるように祈る。それは、聖なるものが聖なる者たちに与えられるように、ということである。司祭は祈りへの招きを述べ、信者は司祭とともに祈りを唱える……」。

 

答五郎 まだ後半があるが、今回はここまでにしよう。まず、ミサの中での位置づけについて、日々の糧と聖体との関係がやはり言われている。そして、聖体を受けるために罪からの清めを祈るという意味にも触れられている。

 

 

女の子_うきわ

美沙 「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」のところですね。

 

 

答五郎 そう。ミサの中での「主の祈り」の重要さを象徴しているのは、「わたしたち」という言葉かもしれない。父である神の子どもとして、そして、イエスの弟子として、キリスト者が「わたしたち」という共同体として、はっきりここで姿を現すといえる。聖体のキリストの前でね。この神からの恵みによって、キリスト者である「わたしたち」は、日々生かされ、互いにゆるし合うものとなっていく、そんなふうに「交わりの儀」の意味を最初に示す祈りといえるね。キリスト者の共同体の祈り、キリストによる交わりの祈りといってもよいぐらいだ。

 

女の子_うきわ

美沙 「天におられるわたしたちの父よ」という呼びかけだけでも深いのですね。ところで、罪のゆるしというと、ミサの始まりの回心の祈りも思い出しますが……。

 

 

答五郎 そう、ミサという集い全体を始めるために罪を告白して心を改め、ゆるしを神に願うことに近い内容が、聖体による交わりの前にあらためて行われることとしても考えられるね。そう考えると、主の祈りは、直前の奉献文だけではなく、ミサの始まりからことばの典礼を含めてのこれまでの全体を要約しているともいえるかもしれない。

 

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問次郎 そして、主の祈りが「信者は司祭とともに祈る」となったのも刷新の要点だったのですね。

 

 

答五郎 そう、公会議前でも信徒用の祈祷書に「天にましますわれらの父よ……」の祈りがあって、生活の中で親しまれていたのだけれど、日本語になったミサの中で一同が声を出して唱える(歌ってささげる)ことができるようになったというのは、ほんとうに画期的なことだったのだよ。慣れっこになってしまっているけれど、その新しさを思い出したいところだ。

 

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問次郎 答五郎さん、式次第の見出しを見ていて、次に「副文」とあるのですが。

 

 

答五郎 「主の祈り」にすぐ続く祈りのことだね。それについては、次に見ることにしよう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


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