ミサはなかなか面白い 63 何を、わたしたちは、ささげます?


何を、わたしたちは、ささげます?

答五郎 こんにちは。奉献文の核心部分にさしかかって、前回は、第2奉献文でいえば、「わたしたちはいま、主イエスの死と復活の記念を行い、ここであなたに奉仕できることを感謝し、いのちのパンと救いの杯をささげます」という文の前半を見たんだね。

 

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問次郎 はい。「いま」というところに、原文では「その理由で」「したがって」という意味があることがわかり、驚きでしたが、「わたしの記念としてこれを行いなさい」という、イエスのことばとの対応がはっきりした感じです。

 

 

答五郎 きょうは、後半の部分「ここであなたに奉仕できることを感謝し、いのちのパンと救いの杯をささげます」に注目しよう。前半の「……感謝し」の句もいろいろ考えなくてはならないところがあるのだけれど、今回は略して、やはり「……ささげます」という文に集中したい。奉献文の「奉献」文たるゆえんのところだからね。ところで何をささげるといっているか、それぞれの奉献文でさまざまなのだけれども、美沙さん、読んでくれるかな。

 

女の子_うきわ

美沙 はい。第3奉献文は「いのちに満ちたこのとうといいけにえを感謝してささげます」。第1奉献文は「あなたの与えられたたまもののうちから、清くとうとく汚れのないいけにえ、永遠の生命のパンと救いの杯を栄光の神あなたにささげます」となっています。

 

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問次郎 結構長いですね。気になるので、第4奉献文も聞いてみたいな。

 

 

女の子_うきわ

美沙 これよ。「あなたに受け入れられ全世界の救いとなるこのいけにえ、御からだと御血をあなたにささげます」

 

 

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問次郎 第3も第1も第4も、共通しているのは「いけにえ」ということばですね。第2奉献文だと「いのちのパンと救いの杯を」となっているので、「いけにえ」のことは浮かんできませんでした。

 

 

答五郎 たしかにね。でも、供えものの準備のところのように、ただパンや杯を供えることだけではないというのは、「いのちのパン」「救いの杯」という表現からも感じられるだろう。その違いを、他の三つの奉献文は「いけにえ」と表現していると考えられる。他の奉献文を学ぶこともつくづく大事だなと思うね。

 

女の子_うきわ

美沙 その三つの奉献文で共通しているのは、結局「いけにえをささげます」ということですね。表現としては、旧約聖書のいけにえを連想させるのですが。

 

 

答五郎 じっさい、そのときの表現が使われている。そして、じっさい、「いけにえ」というと牛や小羊をほふって焼いていけにえにしていた旧約のことを想像してしまうだろう。自分も、最初のころは、「いけにえ」というと、血を連想して抵抗があったものだよ。でも、よく見てごらん、そのいけにえを形容していることばを。

 

女の子_うきわ

美沙 第3奉献文の「とうといいけにえ」、第1奉献文の「清く、とうとく、汚れのないいけにえ」、第4奉献文の「あなたに受け入れられ全世界の救いとなるこのいけにえ」でしょうか。「とうとい」とは「聖なる」という意味でしたね。

 

 

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問次郎 そうか。これらは全部、キリストのことを指しているのですね。十字架にかけられて、自分の命をささげたことを指していっているのですよね。

 

 

答五郎 それでいくと、第1奉献文の「永遠の生命のパンと救いの杯を」と、第2奉献文の「いのちのパンと救いの杯を」が、ただパンと杯の意味だけでないことがわかるだろう。

 

 

女の子_うきわ

美沙 「わたしのからだである」といわれたパン、「わたしの血の杯、新しい永遠の契約の血」といわれた杯のことですね。つまりはキリストのからだと血の意味で言っているのですね。

 

 

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問次郎 なるほど、第4奉献文がそれをはっきり言っている。「このいけにえ、御からだと御血をあなたにささげます」。4つ全部読んで、初めて納得です。

 

 

女の子_うきわ

美沙 たしかにもう、奉献文のこのところでは、パンはすでに、キリストのからだ、杯のぶどう酒はキリストの血なのですね。

 

 

答五郎 だから、第2奉献文が「いのちのパンと救いの杯を」とだけいっていても、結局は「キリストのからだと血を」と言っていることになる。聖体ともいっていい。これが、新約のいけにえということになるのだよ。

 

 

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問次郎 ちょっと待ってください。ここでのいけにえが、キリストのこと、パンと杯といっても、キリストのからだ、キリストの血であることはわかりました。でも、それをいけにえとしてささげたのは、キリスト自身だったのではないでしょうか。

 

 

答五郎 これは鋭いところを突いたな。たしかに、自分をささげたし、その自分のことをパンと杯に託して使徒たちに渡したのだよね。それは一回かぎりのことだった。そのことを前提として、でも、教会は、「わたしたちは、これをささげます」とずっと祈り、行ってきているんだ。

 

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問次郎 でも、キリストが自分をささげ、パンと杯として、弟子たちに与えてくれたものを、わたしたちがささげますと言っているのは、なにか不遜な感じになりませんか。

 

 

答五郎 「ささげます」ということばを表面的にとれば、差し出しますという能動的行為を表すものだけれども、キリストが自らをささげてくれた、与えてくれたということに、こたえる教会(わたしたち)の行為として考えるとどうなる?

 

 

女の子_うきわ

美沙 「ささげます」ということで、教会(わたしたち)が同じことをしているということになるのではないでしょうか。

 

 

答五郎 それにこの文の前半を忘れてはいけないよ。「わたしたちはいま、主イエスの死と復活の記念を行い、……いのちのパンと救いの杯をささげます」だろう。イエスの死と復活を思い起こしての行為なわけだ。

 

 

女の子_うきわ

美沙 そして、そのイエスは聖体として、ミサの中にいるのですよね。

 

 

答五郎 そう、イエスは、かつて一度かぎり、自分をささげただけでなく、今、ここにともにいる方だろう。だとすれば、ということを前提とすれば、「わたしたちは、ささげます」は、イエス自身の奉献を受け入れ、それにこたえて、わたしたちも一致する行為だといえるのではないかな。

 

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問次郎 「ささげます」の中に「キリストを受け入れます」と「わたしたちも自分をささげます」の二つの意味が含まれているのですか。

 

 

答五郎 奉献文の祈りに耳を澄ましていると、そんなニュアンスが充分に伝わってくるのではないかな。いちばん深いところで、キリストと一致する行為をしているということだよ。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


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