私は大学時代日本文学を専攻し、専門は近世でしたが、近代文学の授業も当然のように取っていたので、女流文学が特に気になって勉強していました。その中で、あまり好きではない歌人の一人として与謝野晶子がいました。
与謝野晶子の人生をここで書く紙幅はありませんので、省略いたしますが、彼女を有名にした詩に「君死にたもうことなかれ」があります。日露戦争に出兵した弟を思い、明治37(1904)年『明星』に発表しました。この詩によって与謝野晶子は反戦歌人として現在でも考えられ、教科書にも載っていますが、その後の歌はどうだったのでしょうか。
明治11年(1878)に生まれ、昭和17年(1942)に亡くなるまで、首尾一貫して反戦を通していたのかというと、そうではありませんでした。
大正時代、第一次世界大戦の頃には「戦争」という詩の中で「いまは戦ふ時である 戦嫌ひのわたしさへ 今日此頃は気が昂(たかぶ)る」といっています。
また、昭和天皇が即位した直後の昭和2(1927)年には天皇崇拝に傾斜していたと思われる詩を書いています。その抜粋は以下の通りです。
我等は陛下の赤子、
唯だ陛下の尊を知り、
唯だ陛下の徳を学び、
唯だ陛下の御心に集まる。
陛下は地上の太陽、
唯だ光もて被ひ給ふ、
唯だ育み給ふ、
唯だ我等と共に笑み給ふ
とあります。
与謝野晶子は「歌は歌に候。歌よみならひ候からには、私どうぞ後の人に笑はれぬ、まことの心を歌ひおきたく候。まことの心うたはぬ歌に、何のねうちか候べき。まことの歌や文や作らぬ人に、何の見どころ候べき。」と1904年11号の『明星』に書いています。
この言葉から察するに歌詠みとして、本心を語るべきという思想があったということだとは思うのですが、本心から出た歌だとするならば、「君死にたもうことなかれ」とこれらの歌の整合性はどうとったらいいのでしょうか。
また平成26年(2014)に発見された未発表の歌には「秋風やいくさ初(はじ)まり港なるたゞの船さへ見て悲しけれ」というものもあります。この歌は昭和12年(1937)に横浜港で民間商船が軍事活用され、出港する様子を見て日中戦争の拡大を憂いて歌ったとされていますが、与謝野晶子の本心がますます分からなくなってきます。
日露戦争の頃は、言論統制がなく、自由に歌えたけれども、昭和になると、言論統制が厳しくなり、本音の歌を歌えなくなったと見るべきなのか、与謝野晶子の本心が戦争を美化する方向に変わっていったと見るべきなのかは、与謝野晶子本人に聞くしかありませんが、時代の流れの中で、歌詠みの心まで変えてしまう戦争というものは本当に恐ろしいと感じてしまうのは、私だけでしょうか。
さて、このような歌を詠んでいた与謝野晶子ですが、カトリックの洗礼を受けていたということをご存じの方は案外少ないかもしれません。
『講座 日本のキリスト教芸術 3 文学』(日本キリスト教団出版局、2006年)によると、「寛・晶子夫妻は最晩年カトリックに入信している。同人の『信仰派詩人』大井蒼梧、次女七瀬、六女藤のカトリック信仰に導かれ、寛は臨終洗礼を受けた。晶子も死去の二年前伊藤庄治郎神父から洗礼を受けた」とあります。これによると、死の2年前と言いますから、昭和15年に洗礼を受けていたことになります。しかしながら、戒名があり、白桜院鳳翔晶燿大姉とされていますから、どう考えたらいいのでしょうか。
中村恵里香(ライター)