ミサはなかなか面白い 59 ミサが「記念」である意味


ミサが「記念」である意味

答五郎 奉献文の中のイエスのことばのところを見ているわけだけれど、前回は、「これをわたしの記念として行いなさい」という句について考え始めたね。

 

 

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問次郎 はい、わたしたちは、イエスのことを記念して行っているのがこのミサなのだなと、素直に受け取っていたのですが、答五郎さんが「記念」について何かこだわっているようでした。

 

答五郎 世の中にはたくさん記念行事があるだろう。なにも考えないで「記念」ということばを聞くと、ミサがただの記念行事のように思ってしまわないかなということを心配しているのだよ。イエスの口で語られている「記念」の意味を、どう受け取ったらよいのかな。まず振り返ってみよう。「記念」に関連するほかの日本語がいろいろと思い浮かばないだろうか?

 

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問次郎 「思い出/記憶/覚え」とか?

 

 

女の子_うきわ

美沙 動詞的には「思い出す/思い起こす/想起する/覚える」などでしょうか。記憶に入れられているものを指す言葉もいろいろあれば、それを今、意識の中に引き出すことをいう言葉もいろいろありますね。

 

答五郎  記憶しているものは過去のものだけれども、過ぎ去ってしまい忘れ去ったのではなく、記憶の中に生き生きととどまっているものといえるね。だから、「心に留める」とか「心に刻む」ということも広い意味の記念用語といえるよ。

 

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問次郎 記憶においては、過去のものは過ぎ去るのではなく、現在のものだともいえますね。

 

 

答五郎 日本語でも、記憶や記念に関係することばや漢字が案外多いだろう。聖書を読んでみても、実はそういった表現が結構多いことに気づかされるのだ。ミサの意味にも関係してくると思う例をいくつか書き出しておいた。読み上げてもらえるかな。

 

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問次郎 まず「神が契約に心を留める」例。「神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた」 (出エジプト2:24) 。この思い起こしからエジプト脱出という大きな出来事が生まれるのですよね。それから「主はとこしえに契約を御心に留められる」 (詩編105:8)という箇所もあります。

 

女の子_うきわ

美沙 神が思い起こしたり、心に留めたりするのですね。しかも、ここは契約を、ですね。

 

 

答五郎 そこが重要なのだ。イエスの話も「新しい永遠の契約」に関係しているのだからね。次に:

 

 

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問次郎 「人が契約に心を留める」例ですね。「主の慈しみは……主の契約を守る人、命令を心に留めて行う人に及ぶ」 (詩編103:17~18) 。

 

 

答五郎 聖書では、契約は神の恵みだからね。それを覚えておいて、それに忠実に生きることが神に祝福される生き方なのだという教えが含まれていると思う。

 

 

女の子_うきわ

美沙 神がまず契約に誠実であった、それを思い出す方であり、だからこそ、人もその神との契約を大事にしなければということですね。

 

 

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問次郎 それにしても、神が思い起こしたり、心に留めたりというのが、少し面白いです。神は全知全能の方なので、ずっと覚えているし、忘れないというのならわかりますが。

 

答五郎 聖書の面白いのは、神のこと、あるいは神と人や民との関係がとても人間味にあふれる語り方になっていることだとつくづく思わされるね。神が右の手を伸ばすとか、顔を向けるという言い方が重要なになるのだよ。神の記憶も、たんに知能の問題ではなく、互いの関係に忠実であるかどうか、という話でもあるのだよ。約束を忘れないでいる、という意味が大切なのだと思う。次は:

 

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問次郎 「神に自分たちの想起を願う」例として「主よ、わたしを御心に留めてください」 (詩編 25:7)など。詩編にはこうした願いの祈りがたくさんありそうですね。

 

 

答五郎 たしかに。そして、それはそのままミサにも入っているよ。「心に留めてください」とか「顧みてください」といった祈りになってね。続いて:

 

 

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問次郎 「人が神の御業を心に留める」例。「主の成し遂げられた驚くべき御業と奇跡を…心に留めよ」(詩編105:5)、「主は驚くべき御業を記念するよう定められた」 (詩111:4)、「人々が深い御恵みを語り継いで記念とし、救いの御業を喜び歌いますように」 (詩145:7)、「(過越の) この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちはこの日を主の祭りとして……祝わねばならない」 (出エジプト12:14)、「安息日を心に留め、これを聖別せよ」 (同20:8) 。

 

女の子_うきわ

美沙 あらっ、これらはもう、神を賛美する祈りや礼拝、過越祭とか安息日の礼拝とか、旧約時代の典礼全体に関係している例ですよね。

 

 

答五郎 旧約聖書自体がいわば神の民とされた民と神との関係の記憶の集積で、それは礼拝と表裏一体だということではないかな。記憶・想起の営みがないと礼拝は生まれないものだよ。

 

女の子_うきわ

美沙 キリスト教の場合は、その「主の成し遂げられた驚くべき御業」がイエス・キリストとその生涯ということになるわけですね。

 

 

答五郎 そう、中心とする記憶・想起の対象がイエス・キリストに集約されたことから、聖書的な賛美・感謝・願う祈り・信仰告白などすべての形が、新たに総合されて、キリスト教の礼拝になっているといえるのだよ。

 

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問次郎 「わたしの記念としてこれを行いなさい」というときの「記念」の意味は、それだけ広いのですね。弟子たちに、「わたしのことを覚えておけよ、忘れないでいておくれ」というだけではないのですね。

 

答五郎 そこに神との関係をいつも考えないとね。ただの人ではないのだから、そこまで聖書における記念と礼拝の関係を踏まえると、その式文「わたしの記念としてこれを行いなさい」は、「わたしの記念となるように、これを行いなさい」という意味で理解したほうがよいのではと思う。

 

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問次郎 どんな違いがありますか。

 

 

答五郎 イエス・キリストの記念となるように、キリストの十字架での死と復活によって結ばれた神と人類の新しい永遠の契約の記念となるように……というニュアンスだよ。

 

女の子_うきわ

美沙 そうして、このミサを行うことで、わたしたちが思い起こすのはもちろん、神にも思い起こしてもらうことを願っているということでしょうか。

 

 

答五郎 そう、神にも思い出していただくというニュアンスをここで忘れないことが大切なのだよ。そうでなければ、ミサの祈りという性格が浮かび上がってこないのだから。そして、このことは、奉献文の次の部分にも関係してくるのだよ。それは、次回に扱おう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


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