荒野をぶどう畑に(後編) – 荒野の真ん中でアイを叫ぶ


ニコラオ(カトリック北見教会公式ツイッター担当者)

アレルヤーーーーー! ニコラオ@北見教会です。

前回の記事で「地方教会のSNS伝道」という未開拓の荒野に飛び出した馴れ初めを紹介しました。興味をもっていただけたのであれば幸いですが、本当に興味があるのは「教会のSNSって実際には何をするの?」ということだと思います。「考えなしにSNSなんか始めちゃって」と少し否定的に思われたブラザーもいるでしょうか? ……はい、実はそのとおりだったんです。

北見教会のお御堂です。

現在北見教会のアカウントで定期的に行っていることは、朝の「記念日の紹介」と金曜日の「週日ミサのまとめ」の2つです。これが多いか少ないかはともかく、僕の所感では、「これで精一杯」です。戦略的なお話ですが、朝の挨拶は参考にした上馬キリスト教会さんにぶつけて興味を持ってもらうのが目的、金曜の週日ミサまとめは逆にミサ朗読箇所を通して「カトリックの教会らしさ」を引き出すのが目的です。実際これ以外のツイートは諸先輩方のSNS伝道と似たようなものとなるかと思います。これにはかなり困りました……伝道を語ろうにも僕は一信徒に過ぎません。そもそもコンテンツホルダーになりたいわけでもなかったのです。完全に迷子になってしまいました。僕はいったい何をしたかったのでしょうか?

いろいろ考えあぐねている中で、いつも目にしている文章がありました。「私たちが互いに愛し合うならば そこに神はおられる」……ヨハネ第一の手紙 4章12節。twitterのプロフィールに書いてあるもので、最近まで北見教会の入口前に張られていた聖書の言葉です。SNS伝道とはいえ、それは変わらないと思います。ではSNSにおいて私たちの内にいる「顔も知らない私以外」をどう愛せばよいのでしょうか?

「愛すること」とは伝道でしょうか? それは「方法」であって「態度」ではないでしょう。ならば、とSNSと伝道を切り離して考えることにします。残ったのは「地方教会の伝道に縛られないSNS」になりました。さて、何が出来るでしょうか?よりSNSらしく、言葉を通して互いに愛し合う……たとえばリプライとか……。

これで一気に吹っ切れました。現在の固定ツイートはそれに気がついたときのものです。「慈しみの縦糸に横糸を通してよい織物を織りましょう」。我ながらいいひねり出しだと思っています。僕はただ出ていって、体は届かずともその心を見せ、献げ物を献げて人々に証明するだけでよかったようです。金曜日のミサまとめを献げ物として神様が喜んでくださいますように。

実際はもう少し戦略的で、現在フォローしているのは何らかの組織や、それに準ずるアカウントのみ、個人のアカウントと思われるものはリストを使って皆様のtweetを拝見させていただいています。兄弟姉妹の思うところはぜひ拝見させていただきたいのですが、個人だから言えてしまう言い方もやはり散見されます。あまり見たくないと思うことも……いや不満があるわけではないんです、そもそも僕の個人のアカウントも兄弟姉妹に見せられるものでは……。こちらからのリプライもかなり慎重になっています。言葉は愛するためのものにも、傷つけるためのものにもなります。互いを愛するため、自分を律するブレーキとして教会の所属を背負うのはとても効果的だと感じています。自分の軛(くびき)より私の軛の方が背負いやすい、とイエス様も言われています。願わくば、他の兄弟姉妹の皆さんにも、そうしていただければと思います。これならば、またいだ先の教会をより強く感じることが出来るはずです。

野毛牛(のっけうし)公園の上の橋から。

繰り返しになりますが、今はこれが精一杯です。そしてこの荒野でこれから何が出来るのかは僕にも分からないのです。とはいえ、やることは決まっています。荒野を耕し、種を植える……カッコつけて言えばtwitterも、そしてこの寄稿文も、全ては試みであり同時に恵みなのでしょう。そう捉えてしまえば迷うことはさほどありませんが、この荒野を耕すには僕たちだけでは人手が足りないのです。ぜひこの果てなき荒野に飛び込んでみてください。僕たちはそこにいます。この荒野がぶどう畑になり、たくさんの働き手と喜びのうちに刈り取る日が来ることを願っています。

良き計らいが皆様に、そして記事執筆を持ちかけたくれたwebマガジンAMORの兄弟、記事の寄稿に賛同してくれた川上神父、僕と僕の教会の兄弟姉妹、特にtwitterの更新を押し付けてしまった姉妹、マリア・ヨゼファにも訪れますように、アーメン。

 


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