ミサはなかなか面白い 55 「主はすすんで受難に向かう前に……」


「主はすすんで受難に向かう前に……」

答五郎 こんにちは。元気かな。第2奉献文に入って、冒頭の神の聖性をたたえる句と、供えものがキリストのからだと血になるよう、聖霊の働きを願う祈りのところを見てきたね。

 

 

女の子_うきわ

美沙 ええ、わずか数行の中にも、いろいろなことが含まれていると思いました。

 

 

答五郎 祈りの中で言われていることと、それを何と捉えるかという理解のための言葉と両方が出てくるから複雑に聞こえるかもしれないね。ついて来られているかな。

 

 

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問次郎 えーと、ここでは「聖霊の働きを願う祈り」、つまりエピクレーシスとか「聖別」というのが、理解のための概念ですね。

 

 

答五郎 それぞれ抽象的にはなるけれど、いつもこの祈りの流れに即して使っているから、そのことも忘れないでほしいね。ここで「聖別」という言葉を使っていても、聖別一般というより、供えものがキリストのからだと血となることをいつも指していっているということだよ。

 

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問次郎 このところに関しては、「聖変化」と書いている解説書をちらっと目にしたことがあります。それと同じことなのでしょうか。

 

 

答五郎 供えものがキリストのからだと血となることを指していう言葉としては同じだといえるのだけれど、ミサの祈りの中にも、また総則の用語でも「聖変化」という言葉は出ていないよ。ラテン語でも伝統的にコンセクラチオ(聖とする、聖別する)という単語だった。しかし、他の言語(ドイツ語)などでは確かに「変化」を意味する言葉が解説書や要理書で使われたこともあって、その影響があったのではないかと推測できる。これも理解用語で、基本的には聖別と同じ意味だけれど、今、典礼書では使われていないという経緯だけをちょっと頭に入れておいてほしい。

 

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問次郎 なるほど、またあらためてお尋ねします。では、きょうの箇所の初めは僕が読ませてもらいますね。「主イエスはすすんで受難に向かう前に、パンを取り、感謝をささげ、割って弟子に与えて仰せになりました」から始まるところですね。

 

答五郎 そうだね。そのあと、パンについての言葉があって、「食事の終わりに同じように杯を取り、感謝をささげ、弟子に与えて仰せになりました」と、杯についての言葉が続く。このことは、ミサの中でもっとも厳粛に感じられるところだろう。

 

 

女の子_うきわ

美沙 はい。司祭が声高らかに節をつけて唱え、またホスチアの入っている器を持ち上げて示して、みんながおじぎを……、杯についてもそうなりますよね。見学していても緊張するところです。

 

答五郎 そうだね。奉献文とは文というだけなく、歌われる祈りだし、さらに言葉だけでなく、体も使って動作して礼拝するということまで含む、大きなものだということがわかるだろう。

 

 

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問次郎 この祈りは言葉だけではないということですね。

 

 

答五郎 そう、とても多面的といえるかもしれない。個人でひっそりと祈るのとはずいぶん違うだろう。ところで、理解の手掛かりになるかどうか、総則(79-d)でここの部分は「制定の叙述と聖別」と呼ばれている。「制定」ってなんのことだと思う?

 

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問次郎 パンについて「みな、これを取って食べなさい。これはあなたがたのために渡されるわたしのからだ(である)」というところ、杯について「皆、これを受けて飲みなさい。これはわたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血(である)」というところですよね。

 

答五郎 まあ、そうだ。簡単にいえば、パンはキリストのからだ、杯から飲むものはキリストの血であるということが定められているのだよ。その意味では、聖体の制定だということになる。

 

 

女の子_うきわ

美沙 「これをわたしの記念として行いなさい」までが制定なのではないでしょうか。使徒たちが続けていくべき新しい行いを定めた、命令した、という意味で。

 

 

答五郎 ほんとうにそうだね。聖体の制定というだけでなく、聖体の祭儀、感謝の祭儀、つまりミサそのものを制定したともいえる言葉だ。「制定の叙述」といっている以上、パンと杯についての言葉が告げられた前後関係まで含めて大事だといえるだろうね。

 

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問次郎 最初の「主イエスはすすんで受難に向かう前に、パンを取り、感謝をささげ、割って弟子に与えて仰せになりました」というのも、いかにもナレーションですね。

 

女の子_うきわ

美沙 ここは、有名な最後の晩餐のところですよね。福音書にもある場面が読まれていると思っていました。

 

 

答五郎 イエスが最後の晩餐で聖体を制定したということが書かれている福音書は、マタイ、マルコ、ルカの三つだけだよ。マタイ26・26~30、マルコ14・22~26、ルカ22・15~20だ。ただ、その部分を見ても、今の冒頭の文章がそのまま出てくるところはないよ。

 

女の子_うきわ

美沙 そうかもしれませんが、そう聞けます。三つの福音書の話全体を踏まえた自然な語りだなと思って、違和感はありません。

 

 

答五郎 実は福音書のようにイエスの生涯を語る文脈とは違うけれど、もう一つ大切な箇所が1コリントの11・23~25にあるのだ。パウロが、自分が主から受けたものを皆に伝えるのだといって語るところだよ。「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげて、それを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました」というふうに語っていく。

 

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問次郎 語りだし方は奉献文の雰囲気と似ていますね。あ、逆か。奉献文の語りだしがパウロの語り方に近いのか。

 

 

答五郎 今あるほかの奉献文、たとえば第3奉献文ではどうなっているかな。

 

 

 

女の子_うきわ

美沙 「主イエスは渡される夜、パンを取り、あなたに感謝をささげて祝福し、割って弟子に与えて仰せになりました」となっています。

 

 

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問次郎 あっ、語りだしは、1コリントとほとんど同じですね。

 

 

答五郎 三つの福音書の場合、最後の晩餐の叙述には、ユダの裏切りの予告とかいろいろな出来事が含まれて複合的な物語になっているのだよ。ただ、要約すると、奉献文の短い語りともそんなには違わないだろう。

 

女の子_うきわ

美紗 杯の前のナレーションも含め、1コリントやマタイ、マルコ、ルカの三つの福音書のそれぞれの語り方が背景にあって、奉献文の個々の語りが成立しているのですね。「制定の叙述」という意味も広い意味で考えたいです。「これをわたしの記念として行いなさい」と言って、この典礼を定めたイエスの言葉に教会がずっと従っていて、2000年近くもミサが行われ続けているというのはすごいことだなと思います。

 

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問次郎 でも、総則ではここは「制定の叙述と聖別」といわれているのでしたね。どういう意味で聖別 なのでしょうか。ふりだしに戻すようですが……。

 

 

答五郎 きょうは少し長くなったし、そこのところは次回にしよう。ともかくミサを見学して、奉献文の言葉を味わっておいてほしい。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


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