ミサはなかなか面白い 53 「まことにとうとくすべての聖性の源である父よ」


「まことにとうとくすべての聖性の源である父よ」

答五郎 さて、いよいよ狭い意味での奉献文を見ていくことにしよう。「感謝の賛歌」が「天のいと高きところにホザンナ」という句で終わって、いよいよ、ひとまとまりの長い祈りを始めるところだ。

 

 

女の子_うきわ

美沙 何かとてもあらたまって、厳粛に感じられるところですね。

 

 

答五郎 その感覚はどこから生まれるのか。ここで行われることの大切さ、深さといったものを感じさせ
るところだね。それは見学しているだけでも感じられるだろう。では、はじめの一括りの祈りを、問次郎くん、読んでもらえるかな。

 

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問次郎 はい。「まことにとうとくすべての聖性の源である父よ、いま聖霊によってこの供えものをとうといものにしてください。わたしたちのために主イエス・キリストの御からだと御血になりますように。」ですね。

 

答五郎 ぜひ味わってほしい。まず冒頭の父である神への呼びかけの部分「まことにとうとくすべての聖性の源である父よ」だ。ここで示されていることは、奉献文全体が、父である神に向かう祈りであるということだよ。

 

 

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問次郎 それはわかりますが、「父よ」を修飾する句が、少しわかりにくいですね。「まことにとうとく」というのは、「ほんとうに大切な」という意味でしょうか。それに「聖性」(せいせい)という言葉も抽象的な感じがします。

 

答五郎 それは正直な疑問だと思うよ。自分も長い間同じように思っていた。「とうとい」は、普通漢字で書くと「貴い」や「尊い」だから、大切なとか、尊重されるべき存在を連想するだろうね。だが実は、ここにも日本語訳の問題があって、ここの意味を味わうには、ほんとうは原文を見る必要が出てくるのだ。

 

女の子_うきわ

美沙 「とうとい」を平仮名にしているところに意味があるのではないかしら。

 

 

答五郎 ともかくここの原文は、“Vere Sanctus es, Domine, fons omnis sanctitatis.”となっている。はじめの「とうとく」はサンクトゥス、聖性と訳されている言葉もそれに関連するサンクティタスだよ。今は「聖なる」と訳されることばを、かつて「とうとい」と訳していたことがあって、それが使われている部分といえる。ちなみに、「源」と訳されていることばは直訳だと「泉」で、つまり「源泉」と訳してもよいようなのだよ。つまり「主よ、あなたはまことに聖なる方、すべての聖性の泉です」というのが、現代語風の直訳になる。

 

女の子_うきわ

美沙 ということは、直前の「感謝の賛歌」の賛美の調子が続いていることになりますね。「聖なるか
な、聖なるかな、聖なるかな」と歌っていた流れが受けられているのですね。

 

答五郎  まったくそうだ。神の聖なるあり方を実感して、重ねた賛美しているという句になる。

 

 

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問次郎 「聖なる」というのはどういうことなのでしょうか。

 

 

答五郎 キリスト教ではいろいろなところで、この「聖なる」ことが神についていわれる。主の祈りでもそうだろう。「天におられるわたしたちの父よ、御名が聖とされますように」とね。「聖」であることは、神とはどんな方かを示す重要な側面なのだが、ことばでは説明しにくいかな。

 

女の子_うきわ

美沙 厳かさとか、清さとかを感じて聞いていますが。

 

 

答五郎 人間を超えた存在という意味もある。この言葉で神に呼びかけるということは、なにか人間を超えた、深く、高い存在を感じていることの表れであり、畏れ多い気持ちとセットになっていることに気づかないかな。

 

女の子_うきわ

美沙 ミサ全体の厳かさは、聖なる神への祈りだからなのですね。

 

 

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問次郎 神が聖なる方であるということは、人間を超えていて近づき難い、畏れ多い存在だということを
強調しているのでしょうか。

 

答五郎 ところがね。キリスト教の神は、ただ、ひとり聖なる方で、人間が近づいてはいけないような方、「神聖不可侵」という言葉があるけれど、そのような触れられない方、近づけない方というわけではないのだよ。そのことを示すことばがこの最初の句の中にあるのだけれど。

 

女の子_うきわ

美沙 「聖性」ですね。神は、「聖性の源」「聖性の泉」ですから、他のいろいろなものも「聖」になるための源泉が神だということがいわれているのですね。

 

答五郎 新約聖書のパウロの手紙の中で、たとえば、ローマの信徒への手紙の中では、「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ」(1章7節)としばしば書かれている。キリスト者となった人たちは神によって、そしてキリストによって、聖なる者とされた人たちだということなのだ。

 

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問次郎 神は近づき難い方ではなく、神から人に近づいてきてくれて、人を聖なるものとしたということ
になるのか。

 

答五郎 そうなのだよ! 神は、もちろん人間とは異なる、人間を超えた存在なのだけれども、近づき難い方ではなく、人間に近づいてきて、その聖性という本質を分け与えてくれたというところに、キリスト教のキリスト教たるゆえんがあるといえるのだ。

 

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問次郎 神は、超えた方であるけれど、わたしたちの中に入り込んできた方でもあるのですね。遠いのに近い……逆説的なのに、なにか深い感じもします。

 

答五郎 そこで、聖霊の働きということが出てくるのだよ。それは次回考えよう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


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