「立ち上がる/起き上がる」という動詞
「復活」は、キリスト教の重要な信仰内容を表す代表的な言葉とされています。「キリストの死と復活」、あるいは信条(使徒信条)中で宣言する「からだの復活を信じます」というところなど。典礼で聞く言葉としても、聖書の訳語としても「復活」は用語として定着しています。かつて「よみがえり」ということばが使われていたのに対して、「復活」に統一されたという経緯もあったようです。
とはいえ、こうキリスト教のある意味で“定番用語”になりきってしまうと、逆にキリスト教の教えの奥座敷に鎮座しているようでもあり、それが、わたしたち一人ひとりの生き死に痛烈にかかわっているという実感が湧いてこない一面もあるのではないでしょうか。
「復活」という日本語(訳語)で意味されることのリアリティーはどうしたら見いだせるのでしょうか。ちょっと調べてみると、なかなか刺激的です。新約聖書で「復活する」を表す動詞は二つあり(アニステーミとエゲイロー)、どちらも「立ち上がる」「起き上がる」あるいは「立ち上がらせる」「起き上がらせる」「起こす」という意味のものです。エゲイローには「目を覚ます」という意味もあるとすれば、日本語の「起こす」「起きる」がそれだけで対応します。復活とは「起こされること」。基本の語義がそこにあるとすると、いろいろな事象への連想が広がっていきます。
参考にラテン語で復活を表すレスレクティオ (resurrectio) はレスルゴーという動詞に対応するものです。スルゴー(立ち上がる・起き上がる)に「レ」がついて「再び立ち上がる・起き上がる」の意味になっています。「再興する・復興する」という大きな事柄も指す語です(フランス語や英語もこのラテン語をそのまま導入して、キリスト教の「復活」を指す言葉として定着しています)。
もう一つドイツ語を見てみるとキリスト教の「復活」を表す単語は「アオフエアシュテーウング」(Auferstehung)。これもキリスト教用語「復活」の定番用語ですが、動詞アウフエアシュテーエンは (auferstehen) はやはり「立ち上がる/起き上がる」で、病気から「立ち直る」、廃墟から「復興する」などの意味でも使われるのです。こうしてみると、だいたい同じような現象に触れる単語であることがわかります。
「再」と「リ」の時代への福音
なぜ新約聖書で、復活が「立ち上がる/起き上がる」という語で表現されるかについては、聖書の背景にある死生観を見る必要があり、そこでは、死ぬということが、しばしの間、横たわること、眠ることと考えられています。それでこそ、その状態から「起こされ、立ち上がる」ことがまさしく命への回帰・復帰、復活だということになるのです。
さて、復興という意味が復活を表す単語に含まれていることを見るとき、わたしたちには、すぐさま震災からの復興、戦災からの復興という歴史と、今も直面している震災と原発事故からの復興という社会全体の命題が目の前に迫ってきます。全体的な復興の中にある、災禍を被った一人ひとりの人生における絶望や再起をかけてのそれぞれの歴史に思いを向けさせられずにはいられません。また、いうまでもなく、イエスの時代も今の時代も、病や負傷、ハンディある状態からの再起やリハビリということも、社会をかたちづくる本質的な側面であることが意識化されるようになっています。
社会のメジャーな体制、正規の階段から落ちこぼれたり、はなから疎外されたりするマイナーの存在、非正規の存在が互いに反射し合いながら、社会の実相を創り出している時代。いつの世もそうだったのかもしれませんが、イエスのまなざしは、やはり、そのようなマイナーな存在にこそ向かっていました。そしてその十字架からの復活への展開は、一人ひとりの中にある不安や絶望からの再起、立ち直りの不断の原動力として、今も人々に働きかけている、と考えるとき、ようやくキリストの死と復活が現実味を帯びてきます。
最近では「レジリエンス」 (resilience またはレジリアンス)という言葉が頻繁に聞かれます。回復力・耐久力を意味する物理の世界でも使われる言葉が、心理学の次元で、心のもろさ、折れやすさに対する回復力、要するに立ち直る力という意味になり、その力をどのように培うことができるかというテーマに展開しています。このようなアプローチにも、キリストの復活の意味と力を新たに見いだすヒントがあるのかもしれません。
どのような人の人生にもある「再起の物語」に目を向けていくこと、それがひいてはキリストの復活の反照として見えくるとき、この信仰と世の中のひとりの人生がはじめて絡み合っていくようになるのでしょう。さまざまな再起の物語を照らし出し、語り継いでいくことのうちに、復活と呼ばれる神秘の真のあかしを見いだせるのではないでしょうか。「AMOR-陽だまりの丘」にそのようなあかしをこれから集めていけたらと思います。
(石井祥裕/AMOR編集長)