エンドレス・えんどう 15


服部 剛(詩人)

日本人は外国人から見ると無表情に見える、という話を聞いたことがあります。逆に日本人から外国人を見るとYesとNoがはっきりしている、と感じるかもしれません。日本人の心は白か黒かというよりも灰色で、いつも心にグレーの領域があるようです。それは宗教観にも表れており、西欧キリスト教の一神教は日本人には受け入れ難く、八百万神(やおよろずのかみ)を自然に信じる心をもっています。私の師であるカトリックの哲学者・小野寺功先生は以前、「日本人の宗教性は〈無宗教の宗教〉なのです」と言っていたのが、印象に残っています。

確かに日本人は、日常会話のなかで宗教的な話を好まないわりには、いざ寺や神社にお参りすると自然な心で手を合わせます。そんな日本人を客観的に見ると、何だか不思議な民族に思えます。

では「愛」については、どうでしょうか? 日本人にとって「愛」という言葉ほど曖昧なものはないかもしれません。男女の愛・親子の愛・友愛から師弟愛まで「愛」という文字の裏側には、実にいろいろな「愛」の姿があるのも、日本人の性質なのでしょう。また、キリスト教の神の愛は、見返りを求めず無償で与えるアガペーと言い、男女のように互いに求めあう愛をエロスと言います。

『深い河』の八章を読み、私は改めて〈愛とは何か?〉と考えました。若き日に美津子を愛し、深い関わりをもち、棄てられた大津は、やがて大学内の無人の聖堂でみつめる十字架のイエスから〈おいで〉*1 という内面に響く呼び声を聴き、その密かな導きに応じて歩み続け、辿り着いたのがインドでした。そこで、大津はガンジス河へ遺体を運ぶ仕事をするようになります。世間の価値観では無駄と思われる行為でも、大津の姿からは〈イエスに倣(なら)い、愛を生きる〉という静かな決意が伝わってくるのです。そして、かつて一度は犬のように大津を棄てた美津子はほんものの愛を探して、インドへやってくる――。

* * *

私は今日、お腹の調子の悪いダウン症児の息子の食事介助をしました。ふだんは凸凹だらけで欠点のある父親ですが〈小さな愛〉をこめて食事をすくったスプーンを小さな口へ運びました。ガンジス河で黙して遺体を運ぶ大津の姿を思い浮かべながら。

日々の場面のすき間で〈小さな愛〉を生きることはきっと、目には見えない神との内面の繋がりを深めることであり、その時、体の無いイエスの面影は、人と人の間に働くでしょう。

*1 『深い河』遠藤周作(講談社)より引用しました。

 


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