教室に吹く風


宮本 智子(宗教科教員)

縁あって、関西の女子校と共学校の2つの学校に出入りしている。数年のブランクを経ての教卓復帰は、予想以上に難儀なものだった。宗教科なる教科が特別なのではなく、生徒の“今”に寄り添うのはどの分野においてもたやすいものではないのだろう。

男子の興味をひく話題は、同じ場にいる女子を冷ややかにさせ、女子だらけの教室では突っ込まれる。聖書の世界と今日をつなぐ話題は何か、イスラエルの民と関西人とが共有できる記憶はないものか…。男子校で長年教鞭をとってきた教区司祭はあっさり答えた。「食と性やな。やりやすい方から始めたらよろし」。

先達のご意見を参考に、それでも四苦八苦しながらの1年が終わりそうな3学期、テーマは「5000人に食べ物を与える」(ヨハネ6・1-14)場面にたどりついた。少年が差し出した大麦のパン5つと魚2匹、それが5000人の男性を満腹させた…。突っ込みどころは満載である。さあ今回はどの方向からくるか、と思っていたところである。

「これって、飴ちゃんってこと?」…不意打ちだった。すると、他の生徒も言い出した。
「そっかぁ!この子が飴ちゃん出してきたから、他の大人も出してきたんやな」
「ほんなら、みんなの分行き渡るわ」
「飴ちゃんあったら、お腹ふくれんでも満足するで」
「この子、偉いなぁ!」

奇跡の丘からの風が、教室を吹き抜けた。青草の上には、イエスも生徒たちも一緒にいた。「そうや、ええとこに気づいたなぁ!みんなで分け合う、隣の誰かさんを思うことが自然にできた。それが“神の国”のあり方だったよね」と、解説を入れながら、生徒たちの豊かさに涙があふれそうになった。

関西では名詞に「さん」をつける習慣がある。サツマイモは「おいもさん」に、商売繁盛の神社は「えべっさん」となるが、なかでもポピュラーなのが「飴ちゃん」だろう。この「飴ちゃん」、一説には大阪のおばちゃんはほぼ常備していると言われている。関西出身ではない私は半信半疑だったのだが、電車のなかでぐずる赤ちゃんに途方にくれている若い母親に、「ほら、これでも食べ!」と飴を差し出すおばちゃんを見かけたことがある。飴を渡したついでにおばちゃんは赤ちゃんを抱き上げ、ひとしきりその母親をねぎらっていた。車内にはほっこりした空気が生まれ、そのなかで「飴ちゃん」とは人と人をつなぐツールであり、相手の今をしばし解放するアイテムだと知った。そのいわば「飴ちゃん文化」のなかに生きている生徒たちにとって、少年が差し出した「5つのパン」はまさしく「飴ちゃん」なのだ。

少年だけでなく、居合わせたおっちゃんだって何らかの食料を持っているはず。本人が忘れていても、側にいるおばちゃんは必ず持っている。「あんなちっちゃい子が出してんやで、あんたも行って出してきなはれ!」とせっつく婦人たち。飴ちゃんは、自分のものであって同時に誰かのためのものである。パンではなく、甘みでほころぶ奇跡の丘を生徒たちが教えてくれた。

食卓と教卓は似ている。こちらが手を加えて準備したものを、向き合う生徒たちにサーブする。食わず嫌いもいれば、消化不良も発生する。時に塩対応もされるが、時に豊かなまどいにもなる。献立を考えるのは楽ではないけれど、もう少し、その食卓を共に囲んでいたい。

 


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