服部 剛(詩人)
『深い河』の中で描かれるインドの旅も、いよいよ登場人物たちがガンジス河と出逢う場面に入っていきます。
私たちはたいてい、朝起きて、いつもの道を駅へと歩き、時間通りの電車に乗り、日中は働き、日が暮れた後、家路に着く。そんな繰り返しの毎日を生きている人が多いと思います。もし、当たり前の日常を、あくせく生きる世の人々を、慈しみの眼差しで見つめるならば、一人ひとりは本来、かけがえのないものだと気づくでしょう。それと同時に、私たちが生きる日本という島国にいるだけでは見えない領域の世界があることを、『深い河』に描かれるインドという国は語っています。
僕は先ほど、スマートフォンを手に<メメント・モリ>の言葉を検索すると、その意味は「死を想え」というものでした。確かに、人は心から「死を意識する」とき、真の意味でかけがえのない一日を生き始めるでしょう。しかしながら、日々の繰り返しを生きているような私たちが「死を想い」ながら生きることは、なかなか難しいことです。そんな私自身が「日々の中で意識していることは何だろうか?」と考えると、「世界にたった一人の自分」という存在の不思議さについて思い巡らせていることに気づきます。「自分という存在は、時代も国も両親も、自ら選んで生まれてきたわけではない」のですが、「“今、ここ”に自分がいて、息を吸っては吐き、存在していること自体が、よく考えると不思議だな…」という感覚になり、心の奥から「自分という存在は天に創造された固有の存在である」という密かな確信が芽生えてくるのです。
人生の最期の場所を求める人々が辿り着くガンジス河の畔(ほとり)では、今日も遺体が火葬されており、河には遺灰が流され、その河にインドの人々や巡礼者が沐浴して、河の夕景を染める西陽に向かい、無心で手と手を合わせている――。そこには、大自然の彼方からこの世に働きかける<神>と<私>の命の繋がりを感じながら「生かされている」と実感する、人間本来の魂の歓びがあるのではないか、と私は思うのです。