トピック1 日本近代キリスト教事始め~それは外国人居留地から始まった


今年は、安政条約160 周年のほうが重要

近年、150 年記念が相次いでいます。カトリック教会では、2012年には、カトリック横浜司教区で横浜における最初の教会設立から150 年、2015年には信徒発見150 年、続いて大浦天主堂献堂150 年、2017年、浦上四番崩れ150 年も記念されました。こうして、21世紀の今、幕末明治維新期のカトリック「再宣教」の歩みが回帰してきます。これからすべての歩みが150 年という周期をもって思い起こされていくでしょう。

しかし、近代キリスト教の歩みを全体としてふり返ってみるとき、はっきりとした始まりがあることに気づかされます。それは、1858年からの米国をはじめとする諸国との修好通商条約、いわゆる安政の五カ国条約の締結です。今年は明治維新150 年というよりも、安政の五カ国条約締結から160 年ということも意識したいと思います。そこでの取り決めにより1859年に長崎、神奈川(横浜港)、箱館が開港。他は諸事情から延期され、1867年に兵庫開港、大阪開市、1868年に新潟開港、江戸開市となります。

これらの出来事が、カトリックの再宣教、他の諸教会の宣教の始まりを告げるものとなります。まだキリスト教の禁制下にあった徳川幕府時代には、表向きには宣教ではなく、宣教師も通訳官として入り、神学校もラテン語塾という建前で始まるなど苦心の活動は知られるとおりです。また、どうして、日本の近代キリスト教がこれらの都市から始まったのかは、日本の開国事情がそうさせていたのだということは、逆に新しい発見です。

 

宣教師みんな“外国人居留地仲間”

そして、開港地、開市地にできた「外国人居留地」がすべての宣教活動の最初の拠点となっていきます。横浜居留地は1859年から山下町を中心に造成、箱館の居留地は、1859年の開港から元町一体、長崎居留地は大浦一帯の海岸を埋め立て)1860年から造成。新潟は1868年開港後も外国人の来住が少なく、居留地は形成されず。1868年1月に開港された神戸港関連では、神戸村に外国人居留地が形成。1868年に開市された東京は築地鉄砲洲(現中央区明石町)に居留地が形成され、大阪では1868年開港に伴い、宇治川と木津川の分岐点にある川口に外国人居留地が形成されたという次第です(このあたりは、図書紹介コーナーの高木一雄著『日本カトリック教会復活史』が詳しく経緯を述べています)。

フランス、イギリス、アメリカ、ロシアからやってくる、カトリック教会、聖公会、プロテスタント諸教会、ロシアの正教会もすべての布教活動は、これら外国人居留地が舞台であり、拠点となっていました。近代キリスト教の歴史知識は、教会・教派ごと分けられた縦の動向として語られることが多いですが、すべては開国(開港・開市)に基づく外国人居留地での活動という意味で共通の特徴を帯びています。

明治初期の神戸居留地

大浦天主堂の献堂(1865年)から始まる信徒発見(潜伏キリシタンのカトリック司祭発見)の出来事は、旧幕府からの迫害(浦上四番崩れ)、引き続き明治維新政府による浦上信徒配流政策へと引き継がれ、その顛末と政府の文明開化、欧米諸国との交渉前進の中で、徳川時代以来の切支丹禁制の高札が撤去され、布教黙許時代に入ります。浦上、さらに今村・伊万里のカトリック信徒への迫害政策が、結果的に、その後の全キリスト教諸教会の宣教の前史となっていることにも、今日からは目を向けなくてはなりません。

 

今も外国宗教?

ちょっと前までは、キリスト教というと「外国の宗教」というイメージがあったのかもしれません。カトリック教会では、たしかに1960年代前半、約50年ちょっと前まではラテン語でミサが行われていたのですからじっさいにそうであったでしょう。しかし、今やどの教会の礼拝に出ても日本語で行われていて、日本で宗教というと神道・仏教・キリスト教とあげられて、すでに日本に定着している宗教という目があるのかもしれません。ですが、近代宣教の始まりの舞台をみて、その前衛基地となっていた港町や外国人居留地の姿を想像すると、日本という国におけるキリスト教の位置は、160年前、150年前とあまり変わっていないのではないかとさえ思えてきます。

明治の歴史を見ることは、現代日本のキリスト教に足元を見直す作業にほかならないと思います。この時代を生きた宣教師や信徒たちの足跡を自分たちの内面で感じ取っていきたいと思います。

「新ながさきキリシタン地理」のシリーズもその意味で、併せてお読みください。

(石井祥裕/AMOR編集長)


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