《対話で探求》 ミサはなかなか面白い 45:「罪のゆるし」としての「あがない」


「罪のゆるし」としての「あがない」

答五郎……こんにちは。2週間ぶりだね。今年は、この探究会を隔週で行かせてもらいたいと思ってね。というのも、「感謝の典礼」に入ると、それはミサの核心であるし、どんなこともキリスト教の核心をついていくことになるので、ゆっくり考えながら進めていきたいのだよ。前回は「あがない」というわかりにくいことばの意味について考えたところだった。

 

女の子_うきわ

美沙……ふだん使わない語なので質問したのですが、聖書やミサの祈りで使われている意味では、「ある隷属状態から、神によって解放されて神のものとなる」ことだとわかりました。

 

答五郎……それが基本の意味のようだ。聖書で使われているヘブライ語やギリシア語も、日本語と似たような発想にあるようだよ。隷属状態からの解放という経験は人類史的に普遍的なようだ。

 

 

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問次郎……奴隷解放とか捕虜の釈放とか民族解放とか解放の神学とか、解放は近代・現代でますます重要になっていまよね。

 

 

答五郎……ところで、「あがない」が「贖い」という漢字で書かれるとき「つぐない」という意味で理解されていることに気づいたことはないかな。

 

 

女の子_うきわ

美沙……「贖罪」(しょくざい)という言い方のときは、たしかに罪のつぐないの意味ですね。

 

 

答五郎……どうしてそうなるかというと、「あがなう」が相当のお金を払ってあるものを得るということが基本にあるとして、それが罪に関して言われると「相当の代償をもって罪を免れる」という用法になり、そこから広く罪を償うこと、罪滅ぼし、というような意味になるようだ。国語辞典的にはね。そういうときは、「贖う」の漢字が使われるので「贖罪」という言い方も出てくる。

 

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問次郎……「あがない主」というのを漢字にするときは「贖い主」ですね。「償う」の意味をこめているのですか。

 

 

答五郎……「あがない」と聞いて理解しようと思うとき、混乱が起こるのはそういうところだね。何か隠そう、わたし自身、ずっと理解に苦しんできたよ。でも、そういうとき、新約聖書やミサの祈り、とくに奉献文がヒントになるなあと、読み続けているわけさ。たとえば、イエス・キリストについて語られる次の2箇所を読んでごらん。

 

女の子_うきわ

美沙……はい。まず1ヨハネ書2章2節ですね。「この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです」。次に、4章10節ですね。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」

 

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問次郎……キリストが罪を償ういけにえであると、はっきり言っていますね。「あがない(贖い)」に、罪を償うという意味があるのだとすれば、ここはすんなり「贖い主」キリストのことを言っていることになりますね。

 

 

答五郎……たしかにそうかな。でも、似た言い方で「贖い」がずばり使われている、次の箇所もある。

 

 

女の子_うきわ

美沙……はい。1テモテ書2章6節ですね。「この方(=イエス・キリスト)はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです」。ほんとうに。でも、ここは「すべての人を解放して神のものとする」ための自己犠牲という意味にも感じられますよ。

 

答五郎……たしかにそうだね。では、次のところはどうだろう。

 

 

 

女の子_うきわ

美沙……コロサイ書1章13-14節ですね。「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです」。……あっ。「あがない」すなわち「罪のゆるし」!

 

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問次郎……ふつう「罪のゆるし」というと「罪のつぐない」の結果得られるものと思うのですが……。

 

 

答五郎……そういうところが面白いだろう。罪に関していわれる「あがない」には「償い」の意味も含みつつ、それ以上に「ゆるし」というところまで含んでいるということだ。聖書でいう「あがない」が根本的には「解放されて神のものとされる」という意味であることがわかるだろう。

 

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問次郎……逆に「罪のゆるし」がそのように「あがない」なのだというほうが、自分には新鮮です。

 

 

女の子_うきわ

美沙……あたしもそうです。罪に関して「償う」とか「赦す」とか「謝る」と言っているかぎりは、狭い人間関係の事柄のようにイメージしてしまいますが、「あがない」、すなわち神によって解放されて、神のものとなるということだといわれると、とても、気が大きくなります。

 

答五郎……そうだろう。同感だ。最後の晩餐のときに「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(マタイ26・28)といわれたキリストのことばの意味がよくわかってくるだろう。

 

 

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問次郎……「あがない」を「ゆるし」と説明するところには、解放、そして神のものとなるというプロセスをやはり考えているということなのですね。

 

 

答五郎……たしかに、罪ということに関わる方向よりも、神のものとなるという神との関係のほうが、はるかに大きな意味をもっている。新約聖書やミサの祈りには、その関係性を表現するたくさんのことばがあるよ。「いけにえ」や「献げ物」、他の関連する表現を味わっていってほしいな。

 

女の子_うきわ

美沙……「あがない」という古風なことばが使われる意味を考えながら、聖書やミサに触れていくことにしますね。

 

 

答五郎……このテーマにはまたあとで触れるときがあるだろう。次回からは「感謝の典礼」を式の進行に添って見ていこう。次回は「供えものの準備」と呼ばれるところだ。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


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